都城島津邸

昭和の庭

1879年(明治12年)建立当初は本宅内から見て南6.2㎞の金御岳(472m)、7.5㎞の天ヶ峯(350m)などの山々を借景とした庭だったが、1972年(昭和47年)昭和天皇が御宿泊される際に、建屋を改修し庭の南側に植栽したため借景の山々を高く見せる池、借景の山々が目隠しされてしまい、その後、邸宅南側の田畑が住宅地となり、現在の昭和の庭になった。東南方向に山々の一部が見えるので借景庭園の名残はあるが借景の美しさは消されている。今は池に近い庭の低くなっているところ、記念碑などが置かれた所から本宅方向を見る方が美しい。石々が軽いタッチで置かれている。ウメ、ツバキ、サツキ、ヒイラギ、ソテツ、イヌマキ、ドウダンツツジなどの江戸庭園で良く見られる樹木が多いが、庭の周囲にヒノキが、その外側に複数のクスノキの大木がそびえ立っているので、庭中央の芝面が強調された庭となっている。芝面が軽い昭和の雰囲気を演出している。当邸宅は早鈴大明神社跡に建てられたので、池はかつて神社の池だったのではないだろうか。都城は周りを山に囲まれた盆地なので、借景の山々を高く見せていた池、神が住む池が封印されたのはもったいないと思った。島津家の先祖が見ていた山々の風景、先祖の祈りが昭和天皇の来訪で封印されてしまったような気がした。当邸宅と庭園の鑑賞を終え1877年(明治10年)西南戦争は島津家と旧薩摩藩士・藩民との深い関係を断ち切り、島津藩の主要施設、島津家の屋敷、歴史的資料の消滅が戦争目的の一つだったと思った。熊本城攻撃の長期化も細川家の主要施設、屋敷、歴史的資料の消滅が目的、同様に九州各地で繰り広げられた戦闘も同じような目的で行われたのだろう。莫大な戦費、弾薬を消費し、広範囲で行われた西南戦争は地理・気候を熟知している者どうし、九州の特定地域に限定された内戦だったのに北越戦争・会津戦争・箱館戦争に比べ、弾薬の消費量に比べ人的損害が少ない。官軍側は野砲をあまり使用せず、鎮圧に8カ月もかけた。明治政府、旧薩摩藩士族の双方の指揮官に戦争を長引かせ江戸時代(封建時代)を消滅する目的があったことを語っている。当邸宅の借景庭園が芝面上でくつろぐ庭園に作り替えられたのも時代の流れなのだろう。