森重堅庭園

上級武士庭園

庭は大刈込の大波が画く東シナ海底の龍宮を表現している。山水が一条の瀧水となり龍頭石を叩き龍宮池に注がれる。龍の骨組みのような護岸石組み、龍宮につながることを暗示するような洞穴石。頭を出す龍が龍宮池に向かって滑り込むような情景だ。薩摩半島最南端の長崎鼻には浦島太郎伝説の竜宮神社がある。東シナ海に宿る海神に航海安全祈願し、海中、海上火山による災害が起きないことを祈る庭に見える。それを探るため先ずは森重堅(もりしげみつ)庭園を眺める建屋の向き先を調べた。西方27.68㎞先には野間岳(591m)が、南方116.17㎞先には屋久島宮之浦岳(1936m)があり、建屋南部分はそれぞれの峰を遥拝している。尚、建屋北部分は改築拡張したものか、或いは屋久島西側にある国割岳(1323m)を遥拝しているのか、南部分と若干であるが平行となっていない。野間岳、金峰山、開聞岳は薩摩三峰と呼ばれ、海上交通における大事な目印であった。建屋は西にその一つの峰、野間岳を遥拝しているので、野間岳に気を掛けながら、建屋縁側から庭を介して屋久島宮之浦岳を遥拝するようになっている。屋久島と対話するため作庭したとも読める。次に庭に画かれた風景を考えた。庭を入口付近から見ると、特定地点から見た風景を模したように見える。島津家発祥の地である都城上空から当地、知覧武家屋敷群方面を鳥瞰図(ちょうかんず)のように画いたものだとすれば、中心石手前の灯籠が知覧武家屋敷群、池は鹿児島湾奥部となる。瀧右側の大きな石が桜島(1117m)、瀧左側の大きな石が高隈山地(最高峰1236m)、大正時代まで桜島は島だったので、桜島と高隈山地の間から海水が鹿児島湾奥部に入る様子を瀧で表現している。湾奥部には哈良カルデラがあるので、鹿児島湾口部の阿多南部カルデラ、その南の鬼界カルデラに住む海中火山を起こす龍が鹿児島湾奥部に頭を出している姿を描いたのではないだろうか。築山上の庭の中心石は野間岳、その左で瀧の上側おむすび形状の石は金峰山、庭の左端の石は開聞岳となる。それら山々の背後には大刈込による大波の東シナ海が広がっている。庭中心石、手前の石塔風の石灯籠、池手前の火袋が大きく口を開いた石灯籠、航空地図ではこの三点をつないだ先にある遥拝先が明確に判別つかないが、この3つの目印をつないだ線は稲尾岳に到達するように思える。稲尾神社(930m)もしくは稲尾岳最高峰(959m)を遥拝する目印なのだろう。目障りとなるような石灯籠を中心石の前に置くことは何らかの目的があるはずだ。森家は知覧武家屋敷群の一番東側、亀甲城の西側麓にある。作庭当時、すでに廃城となっていた亀甲城ではあるが、土塁、堀切、井戸など残され有事の際に活用できるようにされていた。その亀甲城に一番近い森家は領主に重臣として仕えた家で、領主が頻繁に来訪していた。ところが建屋の向きを領主が住んでいた知覧御仮屋、西福寺跡(島津墓地)、亀甲城跡の中心、付近の山頂には向けず、野間岳山頂、屋久島最高峰に向け、庭に竜宮(哈良カルデラ)を画き、庭内に稲尾岳を遥拝する目印として知覧武家屋敷群を模した石灯籠を置いている。ということは森家の役割は知覧地区を守る、管理するというものではなく、海上交通、島の管理を行う役割を与えられていたと推測できる。1595年(文禄3年) 太閤検地に伴う所替えで、屋久島は島津家の直轄地となり、その管理は薩摩国知覧に移された。庭が屋久島遥拝庭となっているので森家は屋久島管理責任者の一員だったのではないだろうか。屋久島から出た船が野間岳を目印に航海することは熊本方面に向かうということ。稲尾岳を目印に航海することは大分方面に向かうということなので、屋久島に出入りする船、特に屋久島から鹿児島以外に向かう船、鹿児島以外から屋久島に向かう船を厳しく管理する仕事をしていたのだろう。薩摩藩の許可なく屋久島に出入りした船に龍が出動するが如く対処する気構えを庭に画いたのだろう。南九州の土地柄か水深の浅い池に大きく育った鯉が泳いでいる。多種の樹木で作った大波の大刈込の外側にスギ林が控えている。サツキの大刈込、ドウダンツツジ、玉チラシのイヌマキが見える。明治以降の庭で好まれた庭石ほど黒くない品の良い色の石表面に白苔が育つ。庭には竜宮で画いた哈良カルデラがあり龍が頭を出しているので、航海の安全祈願、火山による災害が起きないことを祈願する意が込められている。森家に与えられた役割が画かれ、領主や当主が屋久島と対話できる庭なので、小さいが大名庭園のような風格がある。中国蘇州で見た庭の風情も少しあり、中国文化圏が近いことも感じる。訪問日は正月の曇り日だったので、次回はサツキ咲く晴天日に訪問したい