佐多直忠庭園

領主との一体感ある庭

庭園はイヌマキの大刈込で画かれた大波の東シナ海底の竜宮城となっている。大波の上には借景の母ケ丘と亀甲城山とが見える。竜宮の最高点は平たい石を立てた庭中心石の先端。大波に少し頭を出す高さとなっている。平たい中心石は表面が白く鏡状になっているので、どこかが発する聖なる光を受け、邸宅内に光を反射し送り込む役割を果たしている。中心石両側に四角い開口部の石灯籠一対を置き、竜宮の雰囲気を高めている。平たい中心石の手前に二等辺三角形状の大きな石を置き庭の奥行を深いものにしている。更にその手前には小さな石をサツキで囲んだリンガ的表現の刈込がある。イヌマキの玉チラシ、樹齢300年のウメ、南九州らしい大きなナンテン、とろけるような海石がちりばめられ、大きな海石の手水鉢がある。当邸宅の主は龍宮の地に住んでいることを感じるようになっている。知覧七庭園は江戸庭園のトップクラスのレベルだ。領主が住んでいた御仮屋中心(現在、家庭裁判所と検察庁の間)から亀甲城跡頂上まで833m、両者を結ぶ線上には森重堅邸宅、当(さたなおただ)邸宅、佐田民子庭園、及びいくつかの邸宅がある。このラインに沿うよう約800mの武家屋敷通りが伸びイヌマキによる波状の大刈込(生垣)がある。亀甲城山に最も近い森重堅庭園には龍頭石があり、その波状の大刈込は色々な樹木にて作られていることからして、亀甲城山を龍頭とし、知覧御仮屋中心を龍尾とする左右一対の龍をイメージしたイヌマキの大刈込(生垣)を設けたことが推測できる。そのイヌマキの大刈込は七庭園で大波に見せている。当邸宅は建屋東北側に庭を作れば2.45㎞先の母ケ丘と300m先の亀甲城山を遥拝できるのに、庭を邸宅西北側に作り、庭入口付近から母ケ丘と亀甲城山を遥拝する庭としている。邸宅内から母ケ丘と亀甲城山が一番良く見えるはずの東北側の部屋に大床を設け、部屋内から母ケ丘と亀甲城山が見えないようにし、領主来訪の際の居間に当てていたことが見て取れる。建屋は庭に隣接する部分を西南の豊玉姫神社に向け、建屋全体は東南の長崎鼻竜宮神社を遥拝する向きとしている。知覧七庭園で唯一、御仮屋近くの平山亮一邸宅は2.7㎞東北の母ヶ岳(標高517m)にピッタリと向いているが、平山亮一庭も当邸宅と同じく庭が建屋の西北側にあり、建屋内から庭を通して母ヶ岳を遥拝できない。しかし庭は当邸宅庭と同じく母ヶ岳を借景としている。平山亮一邸宅と母ヶ岳を線で結ぶ線上には佐多民子邸宅、当邸宅の庭園、および他の邸宅、旧高城家住宅の裏庭がある。これらのことから次の推測をした。当庭の鏡状となった中心石は1.58㎞西南にある豊玉姫神社が発する光、或いは420m西南にあった御仮屋が発する領主の威光を反射させ邸宅内に取り込むためのもの。現在、検察庁となっている御仮屋には大名庭園のような庭があったはず。その領主庭は知覧七庭園の多くが借景としている母ケ丘と亀甲城山を建屋内から遥拝していた。七庭園は領主に遠慮し、邸宅内から母ケ丘と亀甲城山を遥拝しないように作庭した。御仮屋邸宅内に座る領主が庭先の母ケ丘と亀甲城山を眺めることは、その視線内にある武家屋敷通りの両側に居住する家臣達に思いを至らせることに通じる。知覧七庭園などの邸宅に住む家臣達は常に領主から見つめられている思いを抱くようになっていた。家臣達も庭に出れば領主が遥拝している母ケ丘と亀甲城山を眺め、領主との一体感を得ることができた。当邸宅の庭中央に立ち御仮屋邸宅の方角を見れば、御仮屋を意識させる大きなどっしりとした石が目に入る。薩摩藩時代の領主と家臣との緊張ある一体関係を読み取ることができる。