明智荘

明智光秀の躍進(1)

明智光秀の生誕地と伝わる(可児市)明智荘の天龍寺・明智城跡を訪れた。1625年(寛永2年)伝龍寺跡に建立したと伝承される天龍寺境内の明智光秀一族の墓は幾度か整頓されたことが見て取れる。墓石はいずれも小さく整った形なので真面目で勤勉な、尊敬された一族だったことが偲べる。(堺市)南宗寺の千利休一族の墓に似ている。明智一族の墓の隣に多くの大きな黒い石を据えた回遊式枯山水庭がある。墓所の隣なので無意識に明智一族が表現されていると考え観察した。構成は伝統的だが現代風に味付けされている。例えば三尊石の中心石の高さが両側の石と略同じ高さ。枯池の中に亀島のような島を作り石橋を掛けている。三尊石の傍らに神が座る石のような、座禅石のような上面が平らな石を置き、礎石をあちこちに置き庭全体で平等感を出している。ツバキ、マツ、カエデが植えられ、黒色の石に白苔が育っていた。庭石が皆同じ大きさに見えるので明智一族は合議を好む家風だったと思った。整った庭なので整った一族だが、中心部が黒い石ばかりなので内部に闇の部分があったように感じた。本堂前庭は白色の塀、建屋の白色壁で囲まれ、白砂が敷かれているので明るい。明るい庭なので黒系の石組は庭の脇役となっている。緑色、ピンク色の石もあるが目立たない。庭の中のポイントは白い菩薩石像、白い石灯籠、石塔。白い菩薩像が庭の支配者で、個々の石灯籠、石塔が菩薩に従っている。豪快な枯山水庭だ。明智城の展望台から北側の山々を眺めた。三尊石のような山があり、その手前に駱駝の背中のような山が連なっている。駱駝の背中のような山が連なっているからか、それぞれの山が小さく見え、たくさんの山を楽しむ風景となっている。まるで個々の山が、個々の人物のようで、それぞれの人物を眺めるような風景となっている。この風景が200年にわたり明智荘を領有した明智一族の家風を作ったように思った。明智光秀は謎の多い人物で出身が確定されていない。一説で光秀は清和源氏の土岐氏支流の明智氏傍流出身で、父の妹が斎藤道三に嫁ぎ、その娘、濃姫が信長の正室になったので、光秀は濃姫との従兄妹の関係を生かし、容易に信長に会うことができ、足利義昭の入洛を成功させたと伝えられている。光秀が信長に仕官する際に(越前)大瀧神社・岡太神社の里で作られた髪結紙を濃姫への土産とした伝承があるが、光秀と濃姫が従兄妹だった確証はない。光秀の正確な生年月日、親兄弟は判らず、政治・軍事・連歌・医術を誰に学んだのか記録がない。光秀ほど突出した人ならば青少年時代の故事があり、20歳前半に大きな功績・武功を上げているはずなのに全くない。その人生は疑惑が多く、山崎の戦い後、光秀にまつわる証拠が消され、多くの首塚が建立され、歴史がかく乱された感がある。明智一族は斎藤道三に仕えていた。1556年(弘治2年4月)信長が援軍参戦した長良川の戦いで、道三は斎藤義龍に敗れた。弘治2年9月、義龍が明智城を3,700騎で攻めた。明智荘石高は3,500石余りだったので明智一族が動員できた正規将兵は80名程、信長の援軍が来ず二日で落城、明智一族は没落した。おそらく城内に明智荘住民を収容しての戦いだったから激烈な戦いの後、多くの住民が虐殺され、武士は全滅したことだろう。光秀は明智氏再興を一族から託され、妻子と一族の者十人余りを連れ逃亡したと伝わるが、越前まで妊娠中の妻を連れて逃亡したので、光秀が明智城攻防戦に参戦していたとすれば、予め妻を当地から相当に離れた安全な場所に待機させ、逃亡先を確保し、逃亡資金を揃えておかねば逃亡などできるはずがない。明智城攻防戦の前から逃亡手配していたと読める。明智光秀は信仰深く慈悲深い温かい面と冷酷に残虐任務を遂行する冷徹な面がある。二重性格はどのような経歴で形成されたのだろうか。光秀がほんとうに明智氏の男系血筋者で、家族思いの温かい人間なら、信長に認められた際、明智荘の領地回復を願い出、息子を明智城主に取り立ててもらうよう懇願し、明智荘の旧民達を慰労したはずである。しかし光秀はそのような行動をしていない。光秀の主な活動は関西であり、明智荘を避けていたように見える。光秀が顔を知られた明智荘に顔を出せない理由は明智氏を裏切り、周囲の同僚を殺害し敵前逃亡したからではないだろうか。二重性格は信頼してくれた者を殺害した深い自責の念で形成されたものではないだろうか。深い信仰心も自責の念によるものではないだろうか。別の観点から、光秀は明智氏の男系血筋ではなく女系血筋で本能的に明智城での無駄死を嫌い、武士として行ってはならない敵前逃亡を行い、家族を連れ逃亡したのではないかとも疑ったが、もしそうであれば女系血筋に明智家の再興が託されるはずもなく、明智氏再興を託された話は光秀の自作となる。女系血筋だから逃亡するようなスケールの小さい人間が信長の下で240万石の統括運営を任せられるはずもない。それらから明智城落城後に明智光秀と称するようになった人物がいて、その人物は明智氏と血縁関係が無く、単に明智氏を自称し始めただけ、明智氏の名前を背乗りしたと考えた。更に明智城落城後に光秀と称するようになった人物と信長は落城以前から緊密な関係にあり、信長はその人物が明智氏を背乗りする手助けのため明智城を見捨てたのではないか、その人物は明智光秀と称して明智荘から逃亡したことで、誰からも疑われず越前潜入を果たせた。光秀は越前で信長のために朝倉氏に対する諜報活動を行った。越前での活動期間中、堺に行き鉄砲について学び、人が驚愕するほどの射撃の腕前を持つに至ったが、その旅費や学習費は信長が負担し、光秀は信長が堺から鉄砲購入できる段取りをつけたと考えた。歴史を見れば、光秀は間接的に(河内源氏)徳川幕府成立のために働いた。河内源氏の細川藤孝と兄弟のように仲が良かったので光秀も河内源氏の男系出身者でないかと思う。光秀ほど突出した優秀な人の名が古文書に出て来るのが遅すぎる。つまりはもともと光秀という名前の人物はおらず、明智氏の全滅を見届けた後、明智光秀と名乗り始めた河内源氏出身者がいたということだろう。天下統一事業は、このようにして作られた明智光秀を必要としたということではないだろうか。