伊賀八幡宮(岡崎)

徳川家康ゆかりの寺社(1)

徳川家康ゆかりの寺社を書き出すにあたり、初回に伊賀八幡宮を選んだのは家康の生誕地に近く、御祭神が応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現(徳川家康)で、本殿は北に松平8代墓所がある大樹寺を遥拝し、当神宮参拝が大樹寺参拝に通じていることにあった。本殿は南に(渥美半島)白山比咩神社を遥拝しており、大樹寺本堂と白山比咩神社本殿を結ぶ神佛の通り道は(山田宗徧の茶室、淇菉庵のある)明願寺-そして本殿を通過する。この神の通り道両側には大きくはないが多くの寺社が点在している。本殿は西に徳川家康が永代菩提所と定めた(京都)知恩院の大方丈などを遥拝している。本殿は久能山東照宮に対して約3度時計方向に向いている。久能山東照宮と(京都)大野原神社本殿を結ぶ神の通り道は随神門と蓮池の間を通過する。応神天皇陵中心と富士山頂上浅間大社奥宮を結ぶ神の通り道は鎮守の森を通過する。応神天皇陵は広大なので当神宮はこの神の通り道に包まれ、他の神佛の通り道と交差している。当神宮には徳川家康の生母と伝わる於大(伝通院)の実家、水野家と深いゆかりがあることを示す近年の石碑が立っている。於大(1528年~1602年)の父、水野忠政(1493年~1543年)は家康が生まれた年に亡くなっている。家康の父方、松平家は家康が幼い時に全滅している。明智家全滅後に明智光秀が歴史に登場したように、愛新覚羅氏全滅後にヌルハチが歴史に登場したように家康の出生も闇の中にありそうだ。随神門の南に深く掘り込んだ美しい沢池(蓮池)があり、中央に神橋(石橋)が架かっている。伊賀川桜堤から石鳥居越しに随神門を望むと蓮池が地面を長方形に深く掘ったように見え、伊賀川と地下水でつながっているはずの水を蓄えている。蓮池は陥没した低い所(坎KAN)を表現しているので、水面と天空の間に風すら介在しない「6天水訟(てんすいしょう)天水違行」天は上に上にと上昇するもの、水は下に下へと流れて行くもの、進む方向が真逆であるものを見せている。交わることのない天と水との間に神橋が架かっているので、参拝者は神に引き寄せられるように、穏やかな心を持ち石鳥居を潜り、神橋を渡り、随神門を潜り本殿に向かうべきことを示している。進む方向が真逆の天と水とが争っても何の意味も無く、争いが無ければ蓮池は静かな水面を保ち穏やかでいられる。意味のない争いを避ければ平和を維持できること、争いを避けた徳川時代を表現したと読んだ。平和な徳川幕府を開いた徳川家康の墓である久能山東照宮本殿、日光東照宮奥宮、高野山徳川家霊台は墓と言うより家屋で、大樹寺の家康の石墓も家屋型、徳川家康に多くの秘密が隠されていることを示す墓形だ。歴史から少なくとも3名が交代で家康を演じたように読める。1代目の家康は1575年~1576年頃に殺害されたのではないだろうか。根拠は1576年、家康のことを深く知り、桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦いで家康を救い、長篠の戦いに参戦した母の兄(伯父)水野信元を、家康は大樹寺で(家臣)平岩親吉に殺害させた。水野信元の殺害命令は織田信長が出したものだが、殺害命令に至るいきさつに不自然さがある。信長に命令されたとはいえ、自らの命を守り続けてくれた大恩人の伯父をいとも簡単に殺害などできるはずがない。次に1579年(天正7年)家康は嫡男、信康(1559年~1579年)を自害させ、正妻、築山殿を殺害した。信康と築山殿の処分命令を出したのも織田信長だが、信長は殺害命令まで出していない。水野信元を殺害した平岩親吉が徳川家康に自身の首を信康に代わり信長に差し出してくれと求めたことも不自然だ。以上、三名の殺害は家康が2代目に入れ替わったことを隠蔽するためだったとすれば理由付けできる。(嫡男)信康が、父がすでに殺されていることを知り、別人が家康であることを知れば徳川家が真二つに割れる恐れがあった。正妻(築山殿)を騙せるものではない。家康が2代目に入れ替わったことを知られる前に口封じしたのだろう。長篠の戦いで勇猛ぶりを見せた優秀な信康を自害させ、次いで、築山殿を殺害するなど、よほど大きな政治目標を持つ組織(秘密結社)の考慮なくしてできるはずなどない。1代目の家康が好んだ女性は初婚者。築山殿は初婚。築山殿の奥女中で側室となり結城秀康(1574年~1607年)を生んだ長勝院も初婚。督姫(生年1575年以前~1615年)を生んだ側室、西郡局も初婚。秀康は家康の後継者にさせてもらえず1584年(天正12年)豊臣秀吉の養子にさせられた。督姫は北条氏直、次いで池田輝政に嫁がされた。以上から1代目の家康は長篠の戦い或いはその直後に殺害された。その後の家康は2代目だと読んだ。その頃から、家康の側室は寡婦ばかりになっている。徳川宗家後継者、秀忠(1579年~1632年)を生んだ西郷局、1579年に側室となった阿茶局、1575年~1582年に側室となった茶阿局(松平忠輝(1592年~1683年)の生母)、1594年に側室になったお亀の方(尾張徳川家の祖、義直(1601年~1650年)の生母)、次いで、お都摩はすべて寡婦で再婚者である。2代目の家康は自らの立場と似た2つ目の家族を作る寡婦を好んだのだろう。例外として初婚の側室、養珠院(紀州徳川家の祖、頼宣(1602年~1671年)、水戸徳川家の祖、頼房(1603年~1661年)の生母)がいるが、養珠院は7歳ごろより母が再婚し義父に育てられており再婚家庭がどのようなものか身を持って知っている。普照院は初婚か再婚か不明。1597年、17歳で家康の側室となった清雲院は子に恵まれなかった。初婚女性を好んでいた人物が、ある時を境に寡婦ばかりを好むようになるはずがない。2代目の家康は自らの息子(秀忠)に徳川宗家を継がせ、天海の勧めで御三家を設け、自らの息子(義直、頼宣、頼房)をそれぞれの祖にしたと読める。長篠の戦い後の家康は2代目だと読むのが自然だと思う。晩年の家康は少女愛好者となった。このことから晩年の家康は3代目だと推測した。2代目は大坂の陣、或いはその前後に殺害されたが、それを公表するわけに行かず3代目を立てたと考えるのが自然だ。3代目は恵最の可能性があると思う。家康は3名が交代していたことが史実だと思うが歴史証拠などあるはずがない。徳川家康のゆかりの寺社、城、戦場跡をめぐり、観察を通し史実を浮かび上がらせることができれば良いかと思い、これから記事を書きつなげることにした。