華蔵寺(西尾市)

河内源氏の血筋、吉良義央(吉良上野介)の曾祖父、吉良義定が本寺を創建したが、経蔵、梵鐘、庭、多くの宝篋印塔墓は吉良義央(上野介)が建立した。それらから吉良義央の美的感覚、文化レベルの高さを偲ぶことができる。本堂、御影堂、吉良家墓所は北北西に名古屋城天守を、西南西に(和歌山)粉河寺を、北北東に(富士山)淺間大社奧宮久須志神社を遥拝している。粉河寺本堂と淺間大社奧宮久須志神社を結ぶ神佛の通り道は当寺の山門を通過している。本堂、御影堂で拝み、本堂側から礼拝石がある庭を通し山裾を拝み、吉良家の墓を拝むことは名古屋城天守や御殿を拝むことに通じている。本堂に隣接する書院から庭と御影堂を拝むことは富士山頂を背に粉河寺を拝むことに通じている。山門は(福井)経ヶ岳に向いているので、参道を進み山門を潜ることは経ケ岳に向かうことに通じている。山門の左右は(奈良)畝傍山と(富士宮市)村山浅間神社に向いている。吉良義央(吉良上野介)が建てた経蔵は白山(御前峰・剣ヶ峰・大汝峰・白山比咩神社奥宮・大汝神社)と(淡路島)伊弉諾神宮を遥拝している。このように当寺は河内源氏の寺にふさわしい遥拝先を持ち、神佛の通り道が交差することにより気品に満ちたものになっている。当寺から東南約1㎞に東条吉良氏の居城だった東条城跡がある。その城内跡の八幡社と伊吹山頂上の日本武尊像とを結ぶ神の通り道は(吉良氏と徳川家康の戦場跡)藤波畷古戦場跡-当寺東側の建屋-関ケ原古戦場決戦地を通過する。中庭に神の着座石があるので、神の通り道があると思いグーグル航空地図で調べると宝暦年間(1751年~1764年)まで海面に頭を出していた伊勢(二見興玉神社の霊石)興玉神石と諏訪大社上社本宮幣拝殿を結ぶ神の通り道が中庭を通っていた。中庭は沢池を見せ、天が沢に隣接していることを感じさせ、月を楽しませ、天を心に取り込ませる庭だが、建屋の扉を開ければ沢池の上に風が通り、清涼となった風が建屋全体に流れ込むようになっている。中庭から本堂北側の本庭の一部を見せることで、来客者に本庭拝観の期待を高ぶらせるようにしている。来客者が帰る際には中庭を背に、南側の借景山を望ませ、心の切り替えをさせる配慮をしている。庭土が細っているが少し整備すればたちどころに美しさを戻せる庭だ。天を沢に隣接させ「10天澤履(てんたくり)虎の尾を踏む危なさ」を表現している。吉良義央は江戸幕府の儀式を司り天(天皇家、将軍家)のための仕事を行う高家職を務めていたので、その心構えを中庭に画き、池に突き出した石にて生命力を表現し、吉良家の永続と繁栄を祈ったことが偲ばれる。多くの武士の恨みをかった吉良義央は赤穂事件で斬死したが、吉良義央の祈りどおり血流は現代につながっている。本堂北側の本庭は山と建屋に囲まれ、山と地を見せる庭になっている。山中から枯谷を通り枯水が流れてきて、石橋を潜り、海に見立てた地平面に注がれるドラマが画かれている。石橋近くに首がはねられたような立石からなる鶴島があり、その背後に三尊石がある。庭中心石はやはり鶴島の首がはねられたような立石で、吉良義央と重なって見えてしまう。亀島の亀頭石が山に向き、山側にも亀島に向く亀頭石がある。両亀頭石が向かい合っている。前住職の奥様が「前住職は二つの亀頭石は夫婦で、二人で会話をしているようだと言い、この二つの亀頭石を大事にし、周りの草を丁寧に刈っていた」「私は11月に入った頃の庭が一番好きだ」と説明してくださった。紅葉が終わるころ血しぶきのようにマンリョウの赤い実が庭のあちこちに見られる季節は赤穂事件直後の吉良邸を連想させられることだろう。本庭は山と地を見せる庭なので「23山地剥(さんちはく)孤高の危なさ」崩れ落ちそうな危うさを見せている。老化現象を起こした山、裾が安定しない山は崩れる。山である領主は地である領民の立場と生活を安定させてこそ自らの立場や生活を安定させられることを見せている。当地で吉良義央は庭が手入れにて崩れることを避けているように、領民の税負担を押さえ、安定した塩田経営を行い慕われていたことが想像できた。しかしながらサラリーマン社会の武士社会においては高家の地位と立場を使い、目下の小藩主らから賄賂を受け取り、息子を養子に出した米沢藩に多額の金銭負担を負わせるなど評判は良くなかった。自らが高家の地位にあるのは後輩や目下の者の支えによることを忘れ、この庭が危惧する恨みをかい、崩れ落ちるように斬殺されたということだろう。本庭は天の向かう方向に逆らう水を使わないことで天(天皇家、将軍家)に従う意を表現しているが、同じく水を使わない明治以降の枯山水庭と違い気品にあふれている。現在に至っても、封建時代への批判が絶えることはないが、庭を見比べる限り、江戸、室町の庭は近代庭と比べようもなく気品にあふれ美しい。神佛や人間世界を表現し、教訓や祈りを内在させているので味わい深い。近代庭園が虚飾にあふれ軽いと感じる訳を突き詰めると、近代庭園には日本人の心がこもっていないからだと思う。当寺付近にある近代庭を次々と見学した直後だったので、元禄時代の典型的な庭に癒された。