本興寺(湖西)

(京都)勧修寺の庭池を小さくしたような雰囲気がある。庭上空に神の通り道があり、神に降臨してもらい、遊んでもらえるよう小堀遠州が庭を作ったと読み、グーグル地図で神の通り道を調べてみた。久能山東照宮と伊勢神宮外宮豊受大神宮正宮正殿を結んだ線は本堂を通過した。久能山東照宮、伊勢神宮外宮は共に境内が広いので神の通り道の下に庭がある。(鎌倉)円覚寺大方丈と伊勢神宮内宮正宮を結んだ線は大書院、客殿を通過した。円覚寺、伊勢神宮内宮も共に境内が広いので神仏の通り道の下に庭がある。出世城、浜松城天守閣と(インド)ブッダガヤの大菩薩寺を結んだ線は庭池と奥書院を通過した。(京都)勧修寺と同じく複数の神仏が庭池上空で交差している。神に降臨してもらうため、池周囲に頭が平たい石を配し神が歓談する場を提供している。ソテツが温暖な東海地方にいることを感じさせる。小堀遠州得意の大波小波の大刈り込みはなく、風が入りにくい囲まれた庭で、池水面は鏡面庭となりやすく、落ち着いている。歓談する神々を祈る庭となっている。目前の借景山を大きく見せているので、易経に当てはめると(浜松)龍潭寺と同じく「27山雷頣(さんらいい)」が当てはまると思う。正しいことを、正しいものを、正しく養うべきことを表現した自己修養の庭だ。大書院、方丈が西北方向に向く先をグーグル地図で探すと(滋賀)小谷城跡に到達した。大書院、方丈から庭を鑑賞することは、庭上空の神の通り道、庭に下りた神々が歓談する様子を感じながら1573年(天正元年)小谷城の戦いを偲ぶことに通じている。庭に祈りを捧げることは小谷城の戦いで亡くなった方々への供養となっている。大書院、方丈、奥書院は東北方向に会津若松城天守閣を遥拝している。山門及び山門から本堂へ向かう長い参道は長岡城跡に向かっている。グーグル航空地図で客殿が影の中にあるので、客殿の向きが判読しにくいが米沢城本丸跡を遥拝しているように見える。本堂、弁天堂も影の中にあり判読しにくいが(長野)善光寺を遥拝しているように見える。塔頭の東光院は上田城を、玉葉院は(山梨)権現山を、光明院は蓼科山(たてしなやま)山頂にある蓼科山神社奥宮を遥拝していた。遥拝先に城が多い。小谷城は織田信長に攻められ落城した。上田城は第一次、第二次上田合戦で2度にわたり徳川軍を撃退したが、徳川の手に落ちた。伽藍が建てられたずっと後のことだが、遥拝先の会津若松城、長岡城は戊辰戦争で焼かれた。米沢城は戊辰戦争で攻められることはなかったが、大正時代の米沢大火で焼失した。伽藍と塔頭建屋は多数の死者を出した各城に祈りを捧げる形となっている。本堂前の開山杉が伽藍を大木群が包んでいるように見せ、祈りに包まれた寺の雰囲気を出している。上空に神の通り道があることを感じさせている。