桶狭間古戦場伝説地

織田信長の躍進(1)

信長は織田家当主となるため、最大の政敵、同母の弟(信行)を支持した信長の上長、織田信友(清洲城城主)と戦い信友を叔父(信光)に謀殺させた。その直後、叔父(信光)は暗殺された(信長が関与した説がある)。そして清洲城に入った。次に(同母の弟)信行と戦い勝ち恭順させるも、謀反を企んでいると聞き、信長は病気と偽り実母の説得で弟を清洲城に見舞いに来させ殺害した。信長には容赦、手加減という文字が無く、冷徹、冷酷、残忍である。尾張に今川軍が侵攻して来てから、信長が清洲城を出発するまでの行動は清洲城の重臣に桶狭間が決戦場となることを悟られないようにしたかのようであった。永禄3年5月12日、清洲城から直線23㎞の沓掛城に今川軍が入城し、5月18日夜、松平元康(徳川家康)が沓掛城西、直線7.79㎞の大高城に兵糧を届けた(桶狭間は沓掛城と大高城の略中間地点)。しかし信長は動かなかった。当夜、清洲城の軍議で信長は雑談ばかり重臣達をあきれさせた。重臣達が下った後、就寝し、5月19日午前3時ごろ家康が大高城を囲む二つの砦へ攻撃を始めた知らせを聞くと飛び起き、小姓衆5騎だけを連れ午前4時に出発、清洲城から直線5㎞先の榎白山神社、そこから直線約3.88㎞先の日置神社、日置神社から直線3.09㎞先の白鳥山法持寺に立ち寄りそれぞれの寺社で戦勝祈願を行い、白鳥山法持寺から直線471m東の熱田神宮に午前8時頃到達した。騎乗して出発したのに4時間かけ熱田神宮まで歩行速度で移動している。それぞれの寺社に集合させていた将兵を合流させ軍勢を膨らませながら熱田神宮に向かったのではないだろうか。熱田神宮に集結させていた将兵と共に戦勝祈願を行い出陣、熱田神宮から直線6.74㎞先(東南)の善照寺砦で軍勢を整え、直線3㎞先(東南)の桶狭間を睨んだ。このことから信長は最初から桶狭間で戦うことを想定し、清洲城の重臣に判らぬよう各寺社及び熱田神宮に精兵を集め待機させていたことが読める。徳川家康軍の砦攻撃開始は信長が清洲城から出発すべき合図で、徳川家康との密約があったと読めてしまう。当時の信長の石高は30万石未満なので、織田軍は1個師団5,000人強(雑兵を除く)ほどを擁していたと推定できる。信長に従い桶狭間にやって来た兵員数は2,300人程度なので、信長は自軍の半分弱の戦力で今川軍に向かったことになる。誰の采配か判らないが今川義元は今川軍2.5万人を沓掛城から3分割して進軍させた。そのため大高城に向かっていた今川義元の防衛が手薄になり(雑兵を含めた数と推測されている5,300人)、今川義元は討たれやすくなっていた。古戦場伝説地のガイドが「織田軍は二手に分かれていた。本軍2,000人は善照寺砦で待機。小さく分かれた佐々、千秋隊三百は桶狭間古戦場伝説地から約1㎞先の谷(桶狭間古戦場公園付近)で今川軍を待ち伏せした。信長本軍が善照寺砦で軍を整えていることを確認した上で、正午頃、谷に到達した今川軍の先頭に佐々、千秋隊三百が突撃し、今川軍の行軍を停めた。佐々は織田信長の鎧兜を着用していたので、今川軍は信長本軍が攻めて来たと判断、義元を守る兵までも先頭に行かせ三百を撃破した。その時、信長本軍は二つに分かれ今川軍に近づいた。一つは3方向を低い山に囲まれた湿地帯付近(狭間古戦場伝説地)にいる今川義元に最も近い低い山(現在の高徳院境内)を登った。もう一つは今川軍先頭と本陣との間に割り込むことができる谷間の道を進んだ。今川義元は大高城付近の砦攻撃の初戦で勝利が続いたこと、自らの行軍先頭での戦にも勝ち、井伊直盛が信長を討ったとの報告を受け、本陣を張り、昼食を兼ねた宴を開いた。今川軍の将兵が兜を脱ぎ、宴を始め、気を緩めたことを確認した午後2時頃、二手に分かれた信長本軍が一気に低い山を越え、谷を駆け抜け今川義元本陣に突入した。今川軍先頭にいた将兵は本陣が攻められたので急遽、本陣に駆け戻るが、戦いの結果、今川軍2,300人が戦死した。このことを書いた江戸時代の絵図が近年発見された。織田軍は約830人が戦死した。」と説明された。地勢を見ると本陣の北側は池(現在は病院)、その他3方は低い山なので、本陣近く西の山側(現在は高徳院)から突如、鉄砲の一斉射撃と、一斉突撃を行えば、鉄砲の発射音と突撃の声音が怒涛の如く山に響き渡り、本陣で酒を飲んでいた将兵達を動転させられ、行軍の先頭方向から一斉突撃されれば東北の湿地帯(旧東海道方向)へと容易に追いやられることが見て取れる。湿地帯に追いやられた今川軍将兵はぬかるみに足を取られ機敏な動きができなくなり、そこを長槍で打撃され気絶し、斬撃され大量出血し、更に至近距離から銃撃、弓矢が放たれ、短槍の突き、刀にて虐殺されたと想像した。今川軍先頭にいた将兵は本陣に駆け戻ろうとするも織田軍の勢いに飲まれ大打撃を受けた。今川軍の先頭付近にいた松井宗信は200名を従え今川義元を守るために駆け戻るも全滅、織田信長に扮した佐々政次を討った井伊直盛も戦死、千秋季忠を討った久野元宗も戦死した。これらから今川本軍は嵌められたことが判る。2,000人で攻め2時間ほどで自らの犠牲者の数倍の2,300人を虐殺するには湿地帯に追い込まなければできないことなので、ガイドの説明にうなずいた。ガイドに今川義元がほんとうにこの地で亡くなったのか、話がうまく行き過ぎているので影武者ではないのかと伺うと。「今川義元の亡霊が幾度も出現し、それを見た村人が何人も亡くなった。そこでお地蔵さんを建立した。地蔵さん(おばけ地蔵)に一つだけ願い事をかければ願いを実現してくれると言われている。この公園の南側にあった池を潰す時、池の中から、いくつか鎧が出て来た。ここの地下にも鎧が埋まっている。今は土が入れられているが、私が子供の頃は低地だった。合戦当時、この地は未開墾地で誰も住んでいなかった。」と説明された。大量の鎧が埋まったままだということは、ここの伝説地から東への湿地帯で惨殺された今川軍将兵は首だけ持って行かれ、血がべっとりとついた多くの胴付き鎧はそのまま放置されたということだろう。伝説地から直線1.3㎞東には戦人塚(千人塚)があるので今川軍の戦死体の多さを示している。織田軍は自軍の戦死者を回収したはずだから、信長の恐ろしさと戦果の大きさを天下に示すため一部の戦死者を放置したのだろう。桶狭間の戦いを偲ぶものを見つけるため清洲城、榎白山神社、日置神社、熱田神宮を訪問したが、戦いを偲べるものは戦勝後、信長が熱田神宮に奉納した塀だけだった。勝利の返礼に信長が日置神社に寄進した千本の松は見かけなかった。日本人の心の中に織田信長は深く刻み込まれているが信長を記念するものは少ない。熱田神宮に奉納された塀は横線を強調した美的感覚に優れたもので、研ぎ澄まされた信長の感性を感じる。虐殺戦の桶狭間の戦い後、信長の名声は天下に響き渡り、満26歳直前の織田信長の大躍進、天下統一事業が開始した。満16歳の徳川家康は今川氏から離れ、三河で台頭し、徳川幕府成立につながる強い三河武士団結成への歩みを始めた。二年後、両者は清洲同盟を結び、信長は美濃攻略に集中できるようになり、家康は三河での地固めができるようになった。そして、信長は清洲から小牧に本拠地を移した。これらのことから桶狭間の戦いは織田信長と徳川家康重臣による共同作戦だったと読むのが自然だ。子供だった徳川家康は自身を育成してくれた恩人の今川義元と多くの今川氏重臣を織田信長と謀議し桶狭間で討ったことになる。自らの重臣の進言なくこれほど残忍なことができるはずがない。この戦いは戦国時代終結、そして徳川幕府成立へ進み出すため重要だった。政治及び戦場で嵌められた今川義元と家臣たちの犠牲の上に戦国時代終結への道が開かれ、歴史は現代へと続いている。徳川家康はその恩に報いるため今川義元の息子(氏真;家康の幼馴染)を取り立て、子孫を高級旗本(高家)にした。松井宗信の直系子孫を旗本に取り立てた。井伊直盛の直系子孫を(30万石)彦根藩主まで取り立てた。久野元宗の直系子孫を紀州藩1万石旗本に取り立て田丸城代として6万石領地を管理させた。封建社会の残酷さと温かさを見ることができる。