乾坤院(けんこんいん)

徳川家康ゆかりの寺社(2)

山門前に掘り込んだ池があり、参道を進み山門を潜ると鐘楼門、山門、示玄堂、本堂、庫裏、に囲まれた長方形の中庭があり、白砂が敷かれている。池の形は違うが、石鳥居を潜ると池があり池中央に石橋あり、随神門を潜り、本殿を望むと白砂がまぶしい伊賀八幡宮と同じ配置だ。本堂斜め後ろに水野家四代の墓所があり伽藍を見守っている。山門、本堂、示玄堂、庫裏、鐘楼門、(緒川城移築城門)総門は東南東に可睡斎を西北西に(滋賀)教林坊を遥拝している。可睡斎本堂と教林坊本堂を結んだ佛の通り道は本堂を通過する。北北東には(春日井市)内々神社を南南西には(志摩市)天之八衢神社を遥拝し両社を結んだ神の通り道は本殿西縁に沿って通過する。本堂で神の通り道と佛の通り道が交差している。山門を潜った所から神の通り道と佛の通り道が交差する本堂を眺めるのが良い。本堂に向かう参道があり、右側に1本の中心石とそれを囲む5個の石からなる地上のすべてを表現したような小さなストーンサークル状の石組がある。左側奥には人を代表したような宇宙を指さす石像がある。本堂前には左右一対のソテツの花壇があり、ソテツが花開くように育てられている。天空とそれを反射する白砂面との間に本堂、座禅場、庫裏、その背後に山があり、不必要なものを排除した修行に集中するための中庭となっている。水野家四代の墓所を参拝した。ここから直線600m東北にあった緒川城4代城主、水野忠政の墓一基が子、孫、曾孫の墓から離れて立っている。墓の形が家康の墓の形に少し似ているので秘密多い人生だったのだろう。水野忠政の墓の少し下に右から(忠政3男もしくは4男)忠守、(忠守3男嫡男)忠元、(忠元長男)忠善の整った形をした五輪塔墓が並ぶ。後列には右から(忠守の子)守信、(忠守の孫)信英、水野忠善の娘の墓がある。水野忠分らの水野家の墓は場所が分からず参拝できなかった。墓各位の略歴とその子孫をウイキペデアで追いかけた。水野忠政(1493年~1543年)は知多半島北部を支配し、1533年、緒川城から直線1.9㎞東北に刈谷城を築き、徳川家康の外祖父となった年に亡くなった。(忠政3男もしくは4男)忠守(1525年~1600年)は徳川家康の伯父で緒川城6代城主。(忠守3男)忠元(1576年~1620年)は下総山川藩3.5万石藩主。(忠元長男)忠善(1612年~1676年)は下総山川藩3.5万石→駿河田中藩4.5万石→三河吉田藩4.5万石→三河岡崎藩5万石藩主を歴任した。(忠元系水野家8代、三河岡崎藩7代藩主)忠任(1734年~1812年)は唐津藩6万石に転封、(忠元系水野家11代、唐津藩4代藩主)忠邦(1794年~1851年)は浜松藩6万石に転封、老中となった。当時、徳川家斉による50年にわたる長期支配で幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱が起きていた。家斉死後、忠邦は天保の改革を行うも、腐敗しきった幕府を立て直すことができず失脚させられた。(忠元系水野家第13代)忠弘(1856年~1905年)が出羽山形藩5万石初代藩主で明治時代を迎えた。尚、墓石の(忠守の子)守信は尾張藩士となった。(水野忠政8男)忠分(1537年~1579年)は徳川家康の叔父で有岡城の戦いで戦死。(忠分長男)分長(1562年~1623年)は三河新城藩1.3万石の初代藩主。(分長の孫)元知(1644年~1680年)の代に上野安中藩2代藩主を解任され子孫は旗本として続く。(忠分3男)重央(1570年~1621年)は紀伊国新宮に3.5万石を与えられる。(重央系列)忠幹(1839年~1902年)が紀伊新宮藩3.5万石10代藩主として明治時代を迎えた。(忠分5男)勝政(1573年~1635年)は久松松平家に婿養子として入る。(水野忠政9男)忠重(1541年~1600年)は徳川家康の叔父、水野家宗家を継いだ(第6代)。(宗家15代)勝知(1838年~1919年)が下総結城藩1.8万石10代藩主として明治時代を迎えた。(忠重4男、忠清の次男)忠職(1613年~1668年)の系列は各藩主を歴任し沼津藩に落ち着いた。(沼津藩水野家15代)忠敬(1851年~1907年)が駿河沼津藩5万石8代藩主として明治時代を迎えた。(忠清4男)忠増(1625年~1694年)は旗本、(忠増長男)忠位が伊勢桑名藩久松松平家から養子を迎えた。(忠位系水野家6代)忠順(1824年~1884年)が上総鶴牧藩1.5万石3代藩主として明治時代を迎えた。

水野一族は、幾人もの老中を輩出した勤勉な一族であるが、徳川家康の外祖父(忠政)の家系であること。(忠政次男)信元が織田信長-徳川家康の命令で無罪なのに殺害されたが反発しなかったことにより幕府の信任が厚かったと思った。調べ切れていないが藩主として明治維新を迎えた系列だけでなく、旗本、藩士で明治維新を迎えた系列が多数あるはずだ。上述以外に、徳川家康に殺害された信元(忠政次男)の庶子、土井利勝(徳川家康の落胤説あり)は各藩主を歴任、老中となった。その子孫も各藩主を歴任、水野家と同じく幾人も老中を輩出している。(土井家宗家14代)利与(1851年~1929年)が下総古河藩8万石藩主として明治時代を迎えた。(忠政3男)信近(1525年~1560)は桶狭間の戦い直後の刈谷城守備戦で戦死、その息子は伯父、信元の養子となるが、信元と一緒に殺害された。(水野忠政6男と思う)忠勝の息子、康忠は徳川家康に仕え、子孫は代々江戸の町年寄を務めた。以上から水野家一族は歴代にわたり徳川幕府の上級管理職で、幕府になくてはならない一族だったことが読み取れ、徳川幕府中枢の人材が厚かったことを学べた。