大高城 鷲津砦 丸根砦 桶狭間古戦場公園

徳川家康ゆかりの寺社(5)

桶狭間古戦場公園の説明板に「今川義元は前日に設営された陣地にて休息し⋯⋯信長軍は雷雨の中を今川義元本陣近くに進み、雨が止むや間髪を入れず今川軍に突入、遂に今川義元を打ち取りました(信長公記による)」と書かれている。善照寺砦から桶狭間古戦場公園まで直線距離3.2㎞、集中豪雨を受けながら増水した扇川を鳴海城の今川軍に気付かれず兵約2,000名を渡河させ、短時間に移動させることは難しい。火縄銃の種火を守ることも難しい。よって雨が止むや間髪を入れず今川軍に突入という説明には無理がある。今川義元が前日に設営された陣地にて休息していたのであれば、防御濠、柵などが設けられていたはずで、桶狭間の虐殺は起きにくかったはずだ。前夜から翌早朝にかけて、朝比奈泰朝が鷲津砦を、松平元康(以下、徳川家康と記す)が丸根砦を攻撃したが雨が降っていたとは伝わっていない。鷲津砦、丸根砦が攻撃された知らせを清州城で受けた織田信長は飛び起き小姓衆5騎だけを連れ出発、熱海神宮に集まっていた将兵を引き連れ、善照寺砦で兵員を整えた。雨天は伝わっていない。梅雨の季節(太陽暦)6月12日に戦いが起きたので突発的な雨が降ったのかも知れないが、往々にして江戸時代の戦史読み物は事実隠蔽の疑いあり、桶狭間の戦いの真相は以前、織田信長の躍進(1)桶狭間古戦場伝説地の記事の中で述べた地元ガイド説明通りだと再認識した。織田信長は桶狭間に突入するまで善照寺砦で機をうかがっていた。そこから西500mの鳴海城にはかなりの兵員を従えた(今川軍)岡部元信が無傷で待機していた。当然、臨戦態勢での待機だったはず。鳴海城の今川軍に気付かれず善照寺砦から抜け出し扇川を越えられたとしても、織田軍が桶狭間へ突撃した時、鉄砲の発射音、怒涛のような突撃音が鳴海城の今川軍に届かなかったはずがない。鳴海城から桶狭間古戦場伝説地まで直線3.65㎞なので、1時間強もあれば(鳴海城)岡部元信は桶狭間に駆け付けることができたが出陣しなかった。桶狭間の戦い後、鳴海城を守り続けた岡部元信は、後日、織田軍の勇猛な攻撃を幾度も受けるも撃退し続けた強兵である。桶狭間の戦い当日、城を出られない事情、城を出るなという指示、信長の調略を受けていた、いずれかではないだろうか。今川軍の尾張攻め総兵員数は少なく見積っても雑兵を含め2万人(通説2.5万人)、今川義元本軍は約5千、大高城を拠点とした兵は約5千、鳴海城の兵を仮に約2千とすると、沓掛城及び付近にいた兵員は8千以上となる。沓掛城から桶狭間古戦場伝説地まで直線3.8㎞しかなく、桶狭間で戦いが起きたことが分かる位置に8千名以上が居たはず、今川本軍が苦戦すれば沓掛城に退却して来ることは誰にでも分かり、桶狭間で今川本軍が好戦していても応援が必要なことは推測できる。戦国時代の武将達は百戦錬磨の兵(足軽)出身者が大半だし、武将も最前線で戦っていたので、本能的に桶狭間に向かわなければならないと感じたはずなのに誰も桶狭間に向かわなかった。もし沓掛城やその付近にいた今川軍が桶狭間に突入しておれば、今川本軍敗残兵を迎え、正面攻撃を行うことで、逃げる今川本軍への虐殺を防げたはずだ。前日の夜から松平元康(徳川家康)は桶狭間古戦場伝説地の西北3.2㎞地点の丸根砦を猛攻し、織田軍を砦の外に討ち出させ野戦にて完全勝利した。丸根砦の天守跡には慰霊碑があり、砦跡の雰囲気が漂っていた。同時刻、丸根砦の西北西600mの鷲津砦を守る織田軍520騎に対し(今川軍)朝比奈泰朝が率いる2千名が猛攻を加え、略全滅させ完全勝利した。鷲津砦は頂上付近に石碑があり、空堀のような跡が見受けられ、砦跡の雰囲気が漂っていた。鷲津砦、丸根砦を攻撃した今川軍は両砦の守備軍を略全滅させた強兵である。戦闘による消耗があったとは言え、午前10時までに戦闘は終了しているので、大高城や鷲津砦で休息を終えた数千人ほどが桶狭間に向けて出動できたはず。桶狭間に突入しておれば織田軍の背後から大打撃を加えることができたのに全く動かなかった。桶狭間を取り囲む位置にいた3つの今川軍が同時に桶狭間に突入しておれば、圧倒的な人数差があったので、織田軍が大虐殺されていた。いずれの大部隊も桶狭間に突入せず本軍を見捨てたので、桶狭間の戦いは今川義元を成敗するために仕組んだ敵味方による共同作戦だったと読むことができる。大高城は平地に盛り上がった山城で守りは固い。天守跡に神社の祠があるのみ、ひっそりとした公園になっていた。比較的広いが2千名強程しか収容できない広さだ。鷲津砦を攻めた(今川軍)朝比奈泰朝が率いる2千名まで収容できる広さは無い。6月11日の夜、徳川家康は兵糧を大高城に届けたが、それまで城を守っていた鵜殿長照が家康に大高城の守備担当権を渡している。これらのことから次の推測が成り立つ。朝比奈泰朝と率いていた2千名は大高城に入らさず、直接、鷲津砦を取り囲ませ攻撃準備に入らせた。攻略後は戦場片付けをさせ、鷲津砦の守備に専念させた。丸根砦を攻め落とした家康の部隊は早急に大高城に戻り籠り、桶狭間の戦い後、鵜殿長照を大高城から追い出し帰国させた。朝比奈泰朝に兵糧を分けず鷲津砦を放棄し帰国せざるを得ないよう追い込んだ。そうすることで、家康自身が別行動を取りやすく、岡崎に向かいやすくした。そこに水野信元が現れ、家康に岡崎に向かうよう説得し、その説得を受け、水野信元の手配で岡崎へ向かう美談を作った。桶狭間の戦い最中の水野信元の居場所が不明なこと、家康が大高城を出た後、水野家が大高城を所有したことから、桶狭間の戦いは、戦う前から家康を岡崎に向かわせる計画があり、それを実行したまでだと読める。丸根砦、鷲津砦の前哨戦を含め、桶狭間の戦いは織田信長、水野信元、徳川家康の家臣、三者間で作戦計画が練られ、密約したというのが真相だろう。