若狭明通寺

江戸城天守台遥拝庭

山門付近及び参道には樹齢を重ね大木となった多数のスギ、ヒノキがそびえている。山門前から本堂まで真っ直ぐに伸びる参道が印象深い。樹木に覆われているためグーグル航空写真地図上で判別しにくいが、撮影した写真から参道の両端に目星をつけ線を引きそのまま西に伸ばすと(韓国)洞華寺に達した。若狭彦神社上社と多賀大社本殿を線で結ぶと客殿を通過する。若狭彦神社下社と(滋賀)日牟禮八幡宮を線で結ぶと三重塔の西側約30mを通過する。本殿と熊野本宮大社大斎原を線で結ぶと途中に(京都)熊野若王子神社、平城京西側、橿原神宮内拝殿を通過する。本殿と熊野那智大社を線で結ぶと途中に東大寺境内、春日大社境内、崇神天皇山辺道勾岡上陵の掘、山の上古墳(景行天皇陵飛地)、景行天皇山邊道上陵、珠城山古墳群を通過する。以前、記事に上げた近江孤篷庵と出雲大社本殿を線で結ぶと本堂を通過する。客殿・庫裏は東の江戸城天守台方向を、南の比叡山延暦寺に向け建てられ、それぞれを遥拝している。庫裡・客殿東側の庭通路は比叡山延暦寺にピッタリと向っているので、庫裏・客殿前の庭通路を南に向かって歩くことは比叡山延暦寺に向かうことに通じている。樹齢500年のカヤの巨木の傍(庫裡正面)の小さな山門に通じる参道に沿って線を伸ばすと(対馬)和多都美神社に至った。この参道を小さな山門に向かって登ることは和多都美神社に向かうことに通じている。本堂は以前、記事に上げた(滋賀)大池寺に向けて建てられ三体の仏像が大池寺を見つめている。三重の塔は大宰府天満宮本殿に向けて建てられ内蔵仏を拝むことは大宰府天満宮本殿礼拝に通じている。本堂は1265年完成、三重塔は1270年上棟、この地と高千穂神社、伊勢神宮内宮へ線を伸ばすと、二つの線は当地で略直角(約91~92度)に交差する。高千穂神社、伊勢神宮内宮の両方を遥拝できる建屋が建てられたのに、大池寺、大宰府天満宮本殿遥拝方向に建てている。鎌倉政権にとっては高千穂神社、伊勢神宮内宮よりも大池寺、大宰府天満宮の方が重要だったのだろう。奈良時代(710年~794年)の小浜港は奈良へ向かう朝鮮半島からの玄関口だった。当時、港は今より6㎞内陸の若狭彦神社下社近く、当寺から約4㎞下ったあたりに港があったようだ。朝鮮半島沖から黒潮(対馬海流)に乗れば小浜港まで驚くほど速いスピードで到着できる。冬場は現在も能登半島沖海難事故が多いが、対馬から若狭沖まではスムースな運行がされている。推測になるが806年(大同元年)当寺創建当時の小浜港は渤海国(758年~811年)からの使者を受け入れる港、日本国と親戚のような付き合いをしていた新羅国(前57年~935年)との貿易港、蝦夷地方面へ兵員移送するための港、そして国内交易港として重要であったと思う。逆に言えば防衛、警備が必要な港であったはずだ。当寺は山城となるような構造をしているので武官、坂上田村麻呂(758年~811年)が小浜港防衛、警備、情報収集の基地として806年(大同元年)に当寺を設立したのではないだろうか。小浜港は天然の良港で日本海が荒れる冬季でも湾内に高潮が押し寄せることはない。冬も湾内に対馬海流が流れ込み温暖である。江戸時代は北前船の停泊地である小浜湊として栄えていた。釜山草梁倭館経由朝鮮半島との交易、国内交易の重要港だけではなく、魚を水揚げし京都に発送する漁港としても重要だった。小浜港から京都まで約70㎞、小浜港で水揚げされた魚を一晩歩いて京都に届け、翌朝の朝市に間に合わせていた。よって当寺は明治初期までの1,000年にわたって防衛、警備、情報収集の一役を担っていたことだろう。当寺の参道が遥拝している(韓国)洞華寺と(対馬)和多都美神社が当寺の過去の役割を表現しているように見える。各参道や建屋を河内源氏にかかわる多数の聖地に向けていること。神が行きかう遥拝線を持っていること。これは偶然では有りえない。客殿・庫裏は江戸城天守台に向き、そこに借景庭園があるので、庭は江戸城遥拝のためのもので、徳川幕府に仕えていたことを示している。客殿、庫裡前庭は簡素なので明らかに借景庭園、真東方向の山に昇る太陽や月を楽しむ庭だ。借景のどの山頂が江戸城天守台遥拝目印かグーグル地図で判別つかないのがもどかしい。客殿前庭は京都 正法寺と同じく白壁塀と白砂で足元を明るくし、瞳孔を小さくさせ、山を見せる趣向だ。庭を陽、山を陰に見せる正法寺庭園を模写したものだ。サツキとツツジの丸刈りは正法寺庭園の7・5・3と同一ではないが似ている。庫裡前庭は京都 圓通寺と同じく大木で足元を暗くし、瞳孔を大きく開かせ、大木の幹の間に借景山を見せる趣向だ。庭を陰、山を陽として見せる圓通寺庭園を模写したものだ。庭の東北側に石7個を置いているが、圓通寺庭園では大石を埋め込み石の頭だけ出していた。それに似ている。頭を出した石にて江戸城天守から放たれた動物が当寺を経由し、遥拝線の反対側にある釜山南の巨済島に向かう意味なのだろうか。7個の石はカエルのようにも見え、今にも同じ方向に飛び跳ねるように見える。現在、樹木の剪定や樹木が変化した関係で、庭が本来の形とは若干異なっているが、明らかに圓通寺庭園の模写だ。隣通しに陰陽を逆転させた庭を作り、同じ借景の山を別々の建屋内から陰陽反転させて借景山を楽しめるようにしたものだ。正伝寺、圓通寺庭園を真似た庭だが隣通しに並べたことが特徴だ。客殿前庭は白壁塀の外側に伸びるサクラの枝を掃い、庭のサツキを剪定し白壁をもっと眩しく見せ、借景山を明るい空の中に暗く沈むように見せれば借景山を更に美しく見せられると思った。庫裡前庭は大木の枝葉にて暗いので、樹木の下側の剪定を十分に行い、樹木の幹と幹との間に借景の山を明るく見せれば本来の姿に戻ると思った。本来、樹木の幹と幹との間に借景山を見せる庭なのに、中庭門近くのサクラ数本が大きく育ち借景山を隠してしまっている。もともとここにサクラはなかったと思うので、思い切って借景を遮っているサクラの枝を掃ってはどうかと思った。客殿南側にもしっかりとした石組みの庭が作り込まれている。庭師が100年ほど前の庭ですとおっしゃっておられた。サツキの丸刈りがリズミカルに配置されていて軽快な雰囲気が出ている。サルスベリの葉が綺麗だった。客殿と庫裡の裏側(西側)、本堂との間にちょっとしたグランドくらいの広さの広場がある。この広場の東南に築山があり大きな石がおかれている。東北側にも石が並べられている。かつてこの広場に書院があり、東側に客殿、庫裡が借景していると同じ山を借景とする庭を通して江戸城天守台を遥拝していたはずだ。書院北側にも石が並べられている。借景の山々に対応したものだと思う。ここにあった東側を望む庭は客殿前庭園、庫裡前庭園とセットになっていて、同じ山を高く見せていたと思った。本殿からスギの幹と幹との間に見える借景山も美しい。京都の対外玄関港だった小浜港の管理寺院だったこと。江戸庭園及び本堂から見た東の山が江戸城遥拝の目印となっていることから、本堂のシヴァ神と妻を踏みしめる降三世明王立像は、封建時代の各政権が中国に対し政治的表明をするために安置したものだったと深読みしたくなる。当寺参道の南側に池を中心とした近代庭がある。近代庭で見られる石の平らな部分を上面として丸い池の護岸石としている。池の色は乳白色で、周囲のサツキは低く丸刈りされている。東から登ってきた月が乳白色の池にどのように映るのか想像が掻き立てられた。