称念寺(坂井市)

明智光秀の躍進(2)

1556年(弘治2年9月)明智光秀は明智荘を離れ、身ごもっていた妻と一族の者十人余りを連れ、越前の称念寺住職を頼り逃亡した。そして称念寺門前で寺子屋を開き約10年間ここで生活したと伝承されている。称念寺には河内源氏の流れ新田義貞の墓がある。新田氏の系列は徳川氏につながり、同じ河内源氏の流れの足利氏、今川氏、武田氏、毛利氏(源姓毛利家)、細川氏は江戸時代に大名、旗本として日本の政治、行政の中枢にいた。光秀は河内源氏の聖地を頼って越前入りしたことから、単なる逃亡であるはずがない。当地では1563年(永禄6年)玉(細川ガラシャ)が生まれ、その頃、朝倉氏家臣を招いて行った連歌会の酒宴の費用を(妻)煕子(ひろこ)が黒髪を売って用立てたと伝承している。ここでの生活は「わびさび」を地で行く困窮生活だったことになるが、朝倉氏家臣の心を掴み、安心して仕官採用させるために、故意に美談を作ったのではないかと疑いたくなる。光秀はここでの生活を基に「わびさび」思想を作り上げたのではないだろうか、連歌で人脈作りを行えるほど文化レベルの高い光秀だからこそ「わびさび」思想を作ることができ、千利休の茶道につなげたのではないかと思った。信長に召し抱えられるまで堺商人だった千利休に「わびさび」の発想ができるものだろうか。時代の司会者、明智光秀・千利休・天海の肖像画は名だたる武将の肖像画と同じく無表情な多くの殺人を行った人の顔をしている。いくつかの千利休の肖像画の中には光秀の目より優しく目に表情があるものもあるが(千利休は二人で演じていたから表情の異なる肖像画があるのかも知れない)、その肖像画も参戦経験を持つ人に見える。千利休は参戦経歴を持たないので、信長に雇われる前の千利休とその後の千利休は別人で、歴史上の千利休は歴戦経験のある地位の高い武将でなければ行えないような、殺伐とした武将たちを束ね各武将を動かした。天海についても同じで目の窪みが大きく、無表情な目つきの武将顔なので、無量寿寺北院で活躍を始める以前と以後の天海は別人だと見えるし、歴史を作った大政治家、武将経験がなければできないような、家康、秀忠、家光を動かす力を持っていた。明智光秀・千利休・天海の3名に共通するのは時代の司会者であったこと。経歴に疑惑が多いこと。称念寺の本堂、庫裏は鶴岡八幡宮本宮を遥拝している。しかし明治維新後に一度、廃墟のようになったためか、境内を少し狭くし、参道を付け替えたように見える。境内の樹木は大きな丸刈にされているものが多かった。河内源氏の英雄、新田義貞の墓所なので室町・江戸時代に大いに栄えたが、明治に没落し大正時代に再興されたことを表現したような、時代を茫然と眺めているような庭だった。明治時代に大きく衰退させられるほど、河内源氏と深い関係の寺だったことから、光秀は河内源氏の誰かと太い関係を持っていたことが推測でき、ここで朝倉氏を滅亡させるため、信長の工作員として働いていたと推測した。光秀と一緒に逃亡して来たと思える明智秀満、明智光忠は本当に明智氏の一族なのだろうか。彼らは越前で何をしていたのだろうか。光秀の生涯は闇の中にある。