摩訶耶寺(浜松)

この庭は長く田の下に有り、東名高速道路工事の調査時に発見され発掘され忠実に復元されたという話が出来すぎている。明治の廃仏毀釈運動時、この庭を守るため寺関係者、この地を統治していた近藤家が復元できるように埋め、その上に田を作り、歴史遺産庭を守ったのだろう。本堂再建時に庭が修正されることが多いので、本堂の向先にある聖地を捜した。ブッダガヤの大菩提寺を遥拝しているように見えたが1~2度、時計方向に外れている。航空地図が歪んでいるので確定しにくかったが、隣の津島神社が海神神社を遥拝しているので、本堂も(対馬)海神神社を遥拝していると読んだ。本堂再建の力添えをした(旗本)近藤用行(1604年~1664年)が外国商人を支配する長崎奉行に任じられているので、幕府指導の下で本堂、津島神社本殿を日本国の海外支配の象徴であった海神神社に向けたと推測した。最初、庭の説明文「平安時代の影響を強く残す鎌倉時代前期の庭」の通りに庭を鑑賞し、現代日本庭園に通じる古墳状の築山、三尊石石組、蓬莱表現に感嘆した。力強い庭となる天、山、地(芝面の築山)、沢を見せているので、この庭の設計思想は儒教と共に中国から伝わったものだろうかとも思った。そこで(奈良)東院庭園との共通点を見いだすべく比較した。しかし池周囲を護岸石で囲んでいる点で東院庭園と大きな違いがある。東院内から奈良の山々は見えなかったが、この庭は周囲の山を借景としている。初期の日本庭園と類似点が少ない。鑑賞していてこの庭は大名庭園に近いことに気付いた。芝生を植えた古墳形状の築山、池の護岸石、築山上の石組み石が明るいこと、武家庭園特有の黄色系の石が多いこと、庭西側の建屋が久能山東照宮を遥拝していることから、本堂再建時に、近藤用行が幕府の指導の下、小堀遠州(1579年~1647年)もしくは遠州の弟子に従来あった庭を東照宮遥拝庭として整備してもらったのではないかと思った。明るい色の石々が太陽エネルギーを蓄え放出している。浜松の温暖な気候、南に太平洋を望む明るい地勢との相乗効果で温かい庭だと感じさせている。回遊し鑑賞位置を変えれば、築山と借景の山々の位置関係が大きく変化し、風景がダイナミックに変わる。落ち着いて見せる庭と緊迫感を見せる庭、小堀遠州の庭らしい二つの顔を持っている。庭周囲に大波小波の形状をした迫りくるような大刈込みを配せば小堀遠州の庭そのものになる。江戸時代、庭周囲は田畑だったはずで、田畑で働く百姓から庭内で過ごす旗本の挙動が丸見えとなっている。領主と領民が一体となる大名庭園の構造性も備えている。庭西側の建屋内から東の方角には久能山東照宮、駿府城、富士山、鶴岡八幡宮など遥拝すべき先が多い。小堀遠州は庭先はるか遠方の風景を写すことが好きだったので、築山は富士山、箱根山を模したのだろう。庭にあった元の建屋の構造が判らないので、グーグル地図上で現在ある庭西側の建屋中心から線を引くと、三尊石組左側の石組は鶴岡八幡宮を、三尊石組は久能山東照宮を、三尊石組右側の少し遠くにある七石組は(浜松)細江神社を、右側の島の石組は(御前崎) 御前神社を、一番右側の半島の石組は浜松城を遥拝するための目印となっていることが見て取れた。半島の石組の端から右側の島の石組を望むと一本の線が浮かびあがるが、これは江戸城遥拝線となっている。久能山東照宮と(奈良)耳成山口神社を結んだ線は本堂北約20mを通過する。耳成山南端を起点とするとこの神の通り道線は庭と隣の津島神社を通過する。庭の落ち着きは神を呼び寄せる遥拝目印石組と、神の通り道から来たものだろうと思った。この庭を小堀遠州の庭だと見切り、庭周囲の大刈り込みを大波、小波のような大刈り込みにし、大刈り込みにて電信柱、墓地を目隠し、池手前にマツ、ソテツを植え遠近感を強調し、庭西側の建屋内から庭鑑賞できるようすれば、江戸初期の庭に戻せる。この庭には長い戦国時代が終わり、江戸幕府が自信を持って財政出動を行っていた当時の豊かさあふれる雰囲気がある。上がいくら豊かになっても下が貧しければ継続的な富の追求はできない。上が損すれば下が益する。損得は観点の違いにすぎない。そのようなことを語っている。