臨済寺 山門前庭

徳川家康ゆかりの寺社(4)

清見寺と同じく、江戸時代に復元された家康手習いの間があるが、一般拝観できる伽藍と山門前庭のみ拝観した。駿府城公園巽楼に展示されている模写の家康手習いの間は見学した。清見寺のとは窓の大きさが違い、棚が無かったが、天井に龍の絵があり豪華だった。棚が無いので臨済寺では家康の身の回りの世話をする人がいたということだろう。今川氏の詰城、賤機山城跡を北に控える伽藍は北北西158㎞先の奥穂高岳頂上付近の穂高神社嶺宮を、南南東2㎞先の駿府城本丸を、東北東93㎞先の高来神社を、西南西81㎞先の(湖西市)二宮神社を遥拝している。穂高神社嶺宮と駿府城本丸中心付近を結ぶ神の通り道は伽藍中央の参道、方丈を貫く。高来神社本殿と二宮神社本殿を結ぶ神の通り道は方丈南側の屋根に沿っている。かつて駿河城天守から当寺本堂は穂高神社嶺宮の遥拝目印であった。その本堂で神の通り道が交差している。久能山東照宮と金ヶ崎城址の麓にある金崎宮を結ぶ神の通り道も当寺の本堂を通過し、交差している。本堂前から駿府城背後の高層ビルが見えるので、かつては天守など城郭が拝めたはずだ。山門前の参道両側に白砂が敷かれ、更に両端にそれぞれ長方形の池がある。山門に向かって右側、白砂に生えるアカマツの群生が花開くように育てられている。右端、阿形仁王像のように声を発しているかのような角形池に亀島があり石橋が架かっている。池の中に小さな島が三つあり、三つの島の間に水面から頭を出す石がある。それ以外にも水面から頭を出す石がある。水底には水位が下がれば頭を出すいくつかの石が置かれている。亀島の周囲及び三つの小さい島にはヨシのような多年草を植えられ、穏やかな池が演出されている。池を取り囲む護岸石は亀頭のように池に向かって迫り出すものが多く、多くの亀が亀島に向かう情景を表現している。亀島にはヒノキ、タイサンボク、ツツジなどが育ち、菩薩石像、石碑、墓石がある。池は浅くスイレンの葉が浮かび錦鯉が泳いでいる。山門に向かって左側、まぶしい白砂の中に一本だけクロマツが育てられている。左端、吽形仁王像のように声を止め踏ん張ったような角形池に半島状に突出する島があり、島の護岸石は下の石を押さえつけるように組まれている。半島には二つの石碑と石灯籠が立ち、アカマツとクロマツが育っている。ヨシのような多年草が群生する背の低い島もあり、いくつかの石が頭を水面に出している。池を取り囲む護岸は2面がコンクリート壁、新本堂側が石垣、西面が踏ん張っているような石組みとなっている。スイレンの葉は浮かんでいるが鯉は見かけなかった。一見すると神社入口の池に似ているが、一対の池を阿形と吽形にすることで仏教寺院としての雰囲気を盛り立てている。二つの池は底力を感じさせる力強いもので、池周りに黒松、赤松が多く育ち、当寺から家康が巣立ったことを見せるものとなっている。当寺を開寺させた太原雪斎(1496~1555年)は今川家の譜代家臣、臨済宗僧侶。幼い今川義元(1519~1560年)の教育係を務め、今川義元と駿河富士山麓の善得寺、京都の建仁寺、妙心寺で修行した。1536年、今川義元に家督を相続させる働きをした。1537年(甲斐)武田信虎との関係改善に務め甲駿同盟を成立させた。1546年(信長の父)織田信秀が西三河に侵入した際、(家康の父)松平広忠の救援要請を受け、西三河に介入。1547年、三河田原城を攻め落とし、1548年、三河小豆坂第二次合戦で織田信秀に勝利し西三河を支配した。1549年、三河安祥城を攻め(信長の兄)織田信広を捕縛することで人質となっていた松平竹千代(徳川家康)を取り戻し、家康の師になった。1554年、甲相駿三国同盟を締結させた。太原雪斎から学んだ家康は三河小豆坂第二次合戦の横槍戦法を用い姉川の戦いを勝利させた。調略による外交、今川家の法律制定、宗教による統治など、太原雪斎の業績を手本とし天下統一事業を完成させた。徳川家康公手習いの間は、家康が今川家に人質として取られ卑屈な生活を送っていたようにはとても見えず、河内源氏の長となり、征夷大将軍となる人物育成のため計画的に極めて良質な教育を実施すための部屋であった。中国では皇帝しか使うことができない龍を天井に画いているのがその証だ。清和天皇を祖とする河内源氏は源頼朝を輩出し、武田氏、足利氏、今川氏、徳川氏など多くの系列を輩出した。氏は異なるが同族であり、腐敗した足利氏に代わる人材を河内源氏から輩出するため徳川家康公手習いの間、家康のための学校を作ったことが見て取れた。当寺の部屋は清見寺の部屋より豪華で棚がないので、1代目の家康は当寺で、2代目の家康は清見寺で学んだと私は理解した。長篠の戦いまでの家康はお坊ちゃんのような所があり教科書通りの行動を取った人物のように見える。長篠の戦い以降の家康は機知に富んだ人物に見える。学ぶ環境の違いによるものではないだろうか。室町幕府最後の将軍、足利義昭の次に将軍となったのは徳川家康、将軍席の空白期間はわずか15年間だけ、これから見ても家康の人材育成は計画的なものだったことが読める。京都、等持院霊光殿に歴代足利将軍の木座像が並べ置かれているが、その一番奥、足利尊氏の向かいに聡明で優秀な顔をした徳川家康が座っておられる。家康が足利将軍の継承者になるべくして成ったことが感じ取れる。家康という人物を作ることを策定したのはいったい誰なのだろうか。