伊賀上野城

大阪の陣の最中にも築城が続き、大阪夏の陣の終了と共に築城をストップさせられたためか戦いの匂いがする。連戦連勝の武将、藤堂高虎にふさわしい敵を城内に引き入れ殲滅する縄張りとなっている。近年、天守台に木造3層天守が建てられた。天守台が向く先の聖地を調べてみた。天守台は西に(沖ノ島)宗像大社沖津宮を、東に(浜松)二俣城跡を遥拝している。沖ノ島は御神体島で周囲4㎞と大きく、二俣城は南北300m、東西250mの遺構なので、遥拝線が幅広く取れる。沖ノ島の北側と二俣城の天守跡を結んだ線は当城天守台を貫く。大天守、小天守はこの遥拝線に沿って建てられている。宗像大社沖津宮はアマテラスとスサノオの娘、宗像三女神の長女タキリビメを祀る聖地。二俣城は武田軍と徳川軍が幾度も激しい攻防戦を行い、後に徳川家康が息子の信康を自害させた城である。いずれも徳川家を敬うことに通じる聖地だ。南北方向を見ると北に(近江八幡)日牟禮八幡宮を、南に(楯ケ崎)阿古師神社を遥拝し、両者を結んだ神の通り道は当城天守台東部分の石垣を通過する。日牟禮八幡宮は応神天皇、神功皇后、宗像三女神を祀る。阿古師神社は豊玉姫(トヨタマヒメ)、伊勢大神、三毛野命(ミケイリノノミコト)を祀る。三毛野命は豊玉姫の息子と、豊玉姫の妹(玉依姫)の間に生まれた男子の一人、大和へ進軍していた弟の神武天皇を助け無事に阿古師神社付近に上陸させた。神武天皇は熊野を抜けて大和を平定し橿原宮にて初代天皇に就任した。東西南北に遥拝するいずれの聖地も河内源氏の徳川家が敬う先となっている。戦いの神のような藤堂高虎は徳川家に対する忠誠心を天守台で表現するため、上記の東西の遥拝線と、南北の神の通り道が交叉する地点に天守台を定めたと読んだ。この天守台は上記以外に多くの神の通り道の下にある。(大島)宗像大社中津宮と(浜松)秋葉山本宮秋葉神社上社を結んだ神の通り道は大阪城の北に架かる京橋、そして天守の北約35m付近を通過する。(福岡)宗像大社辺津宮本殿と天守台東約5㎞にある伊賀荒木毘沙門天摩崖仏を結んだ神佛の通り道は、大阪城の南堀、そして当城天守台を通過する。(宮崎)高千穂神社と水戸八幡宮の鳥居を結んだ神の通り道は(羽曳野)応神天皇陵中心、(奈良)法隆寺境内の真中、当城天守台のすぐ北西の櫓跡、(赤石山脈)烏帽子岳を通過する。この線の両側100m以内には(羽曳野)古市古墳群、法隆寺主要建屋、(豊田)広沢城跡、市場城跡、(下伊那郡)尹良親王墓、波合神社、(南アルプス)白河内岳、及び多数の小さな神社が点在する。天守は神々を呼び寄せる三重塔の役目を果たし、神武天皇の兄、両親、祖母などの神々、八幡神、宗像三女神らに見守られる形となっているので当城が潰されることは無いだろう。城下町の栄楽館にどこから見ても伊賀上野城内にあった大名庭園の中心石石組を移したものだと思える石組がある。藤堂高虎の養女が小堀遠州の正室なので、この石組は小堀遠州作なのだろうか。この石組が小堀遠州作だとすれば藤堂高虎も眺めた歴史的価値ある石組となる。この石組は藤堂高虎の戦場における姿を表現しているように見える。当城は易経「42風雷益(ふうらいえき)益する道」がふさわしい。風烈しければ雷速く、雷激しければ風激しくなる。戦いは状況を見て躊躇ない決断を行い続けることであり、機を見て風のように兵を動かし、雷のように攻める。戦況判断とそれに対応した速やかな攻撃が正しければ風のようなスピードと雷のような激しさの相乗効果で大いなる戦果をあげることができる。そして雷のような決断と風のようなスピードで戦場から引き揚げ損失を最小限に止める。藤堂高虎は自らも戦傷を負いながら、兵卒達の損傷の上に戦果を上げ続けた。自らの損があればこそ戦勝という益を得ることができる。損してこそ益が得られる戦いの精神を当城で表現したように感じる。そのような精神を表現した当城に、川崎克衆議院議員は軍国主義に立ち向かうため、私財を投げ打ち、1935年(昭和10年) 日本文化の象徴である木造製の天守閣を日本の神々を呼び寄せる場所に建立し、大戦中の1942年(昭和17年)松尾芭蕉の生誕300年を記念し、木造製の俳聖殿を建立した。戦いのために作られた城が、平和を表現する城へと変貌した。天守閣と俳聖殿にて、日本文化で軍国主義に対抗できることを人々に示した川崎克衆議院議員は偉大だ。自らは財産を減らしたが文化事業にて子孫が尊敬を受ける益を得た。当城の精神に従い行動を起こしたのだと思う。軍国主義は衰退し、美しい姿の天守閣と俳聖堂は文化主義が軍国主義に勝利したことを人々に見せ続けている。これは現代にも通じる。現在、日本国民は日本を被植民地国とする政策を推し進める官僚、政治家の犠牲となり増税に継ぐ増税で自らが稼いだ金の60%を奪われ、40%しか使わせてもらえない苦しい生活を強いられている。更に徴収した多額の血税の相当部分(GDPの半分程度)は官僚が上納金として使い日本国内に還流させない。そのため日本国内に十分な金が回らず経済衰退、技術の発展阻害が起きている。30年間GDPが伸びないのは当然だ。歴史を見れば30年間奪われ続けた財はいずれ帰ってくる。軍国主義の延長戦上にある被植民地化政策を自ら進んで行っている官僚、政治家は、現在、彼らが苛めている民に奉仕する立場へと追いやられることだろう。日本国民はその時に備え文化力、教養力、学力、技術力を向上させ、彼らが推奨する金融博打政策に乗らず本業に励み、次の時代を担える実力を蓄えるべきことを天守閣と俳聖堂が教えてくれているように感じる。