近水園

風の庭

近水園(おみずえん)の面積は5,500㎡、衆楽園の面積は74,700㎡(現在はその三分の一)、(岡山藩)後楽園は144,000㎡、築庭時、足守藩2.5万石、津山藩(森家)18.6万石、岡山藩31.5万石。城持ち大名と陣屋大名の違いなのか、石高比率よりも小さな庭だ。しかし、借景を十分に復活させれば秀麗な本来の大名庭園に甦る力を秘めている。1701年(元禄14年)赤穂事件にて龍野藩主と共に赤穂城の受け取り役を務めた5代藩主、木下㒶定(きんさだ1653年~1731年)が1708年(宝永5年)仙洞御所・中宮御所の普請で余った材料にて吟風閣を建て、当庭を作った。1799年(寛政11年)8代藩主、木下利彪(としよし1787年~1851年)の時に所領の大半約2.2万石を陸奥国伊達郡・信夫郡に移され財政が困窮を極めた。参勤交代で宿泊費も捻出できず、土手で寝る土手侍と噂された。所領が移された原因は、参勤道中における宿屋で、足守藩より格の高い大名に宴席場を譲るべきところ、豊臣家の流れを汲む自尊心から宴席場をなかなか譲らずトラブルを起こした。足守藩の大名行列に愛妾2名がいたことを理由にして幕府高官が藩取り潰しの危機に立たせた。藩を救うため責任を被り切腹した田中九之丞の祠が庭の南側にある。池の中の亀島と鶴島におとなしく石を置き護岸石組みし、借景の宇野山を蓬莱山に見立てたシンプルな庭だ。吟風閣から東方向に庭と宇野山を楽しむ。その南南東方向へ建屋に沿って線を伸ばすと8.1㎞先の吉備津神社本殿に到達した。吉備津神社は当地を治めた皇族「きびつひこのみこと」が主祭神。細長い吟風閣に沿って東北方向へ線を伸ばすと275㎞先の永平寺法堂の北に到達した。建屋を永平寺に向けたのは高台寺の開山当初、曹洞宗であったことと関係があるのだろうか。吟風閣から二つの島を望むと重なって見える。藩主が座る吟風閣の上座を起点とし、亀島中央の石、鶴島の古い石塔を結んだ線を東南東方向に伸ばすと101㎞先の伊弉諾神宮本殿に到達した。その線を更に伸ばすと202㎞先の八経ヶ岳(1,915m)と弥山1,895mの中間付近に到達した(八経ヶ岳と弥山との間はわずか726m)。次に亀島に架けられた橋に沿って北に向かって線を引くと亀島の亀頭石を通過し66.6㎞先の下蒜山(1,100 m)に到達した。蒜山(ひるぜん)は神話が多い。遥拝先の吉備津神社、伊弉諾神宮、蒜山は神が住む地なので、池は神池だ。厳しい修行の永平寺と修験道の聖地とを遥拝しているので自己修練を怠らないことを庭に表現したかったのだろう。庭は日本刀を振りまわし地を切り裂いて作ったような構図となっている。池にナマズが生息しているので江戸庭園が今も生きている思いがするが、遥拝先の神々しい気を導く鶴島の石塔のすぐ隣に、この庭を寄贈した木下利玄の歌碑が建てられている。一見すると歌碑がこの庭の主だと錯覚するほどインパクトがある。江戸文化の破壊者であった明治・大正・昭和の時代が、大名庭園を歪曲するため歌碑を建立したのだろう。庭の南端にマリア石灯籠のマリア部分だけが置かれているが、茶室露地に置かれていた石灯籠の一部を移転したものだろう。庭手前側の木々が大木となりすぎて借景の迫力を減少させている。近水園のパンフレットには往時は足守川との境に竹藪をめぐらしていたと説明されていた。しかしモウソウチクが日本に輸入されたのは1739年(元文3年)で、国内に普及したのは、それよりもずっと後である。本来の庭はこのようなものではなかったはずだ。近水園に植えられたマツの本数は、衆楽園、後楽園に比べ物にならないほど少ない。相当数のマツが伐採され、或いはどこかに移植されたのだろう。築庭当初は池対岸外側の足守川に沿う街道に松並木があり、街道の更に東側の田畑をも借景とする見通しの良い庭だったはずだ。田畑で働く農民、街道を通る人々から吟風閣で過ごす藩主の姿がよく見えたはずで、吟風閣に座る藩主と田畑で働く藩民との心の交流の場であったはずだ。庭から易経の象意が読み取れる。両側の山が足守川に迫り風の通り道となっていて、足守川に沿って吹く風が日本刀を振った時に生じる風のようなシャープな切れ味があるので風の庭だ。空高く風吹くと「9風天小畜」風を一時食い止めることができても長くは止められない。夫婦に例えれば夫の強い意志を妻が一時止めることができても長く止められるものでない。時代の流れを一時止めることができても長くは止められない。藩主の意を家臣が止めてもいずれは実行される。藩主は時を待ち実行するタイミングを計れと教える。足守川の上、流水の池の上に風吹くと「61風沢中孚」談笑しているような爽やかな風が吹いている。人々は誠意を内にした節度、節操ある人を信じる。爽やかな風が信頼される人の姿を庭の上に見せる。野焼き、人家から立ち上る煙は「37風火家人」火が燃えると風が起こり、その風が火を強くする。家の中で火を起し食事を作り、暖を取り、風呂に入る。家中の夫は夫らしく、妻は妻らしくあってこそ家が整う。藩は家と同様、藩主が主人、家臣、藩士、藩民は家族。主人は主人らしく、家族は家族らしく其々が立場をわきまえ、団結することが大切であると教える。春、雷が激しく落下し風吹けば「42風雷益」風と雷が相互に振幅し若芽が伸長する。益する道は損もある。藩は藩民からなりたつ。いくら藩が豊かになっても、藩民の生活が苦しければ藩は永続しない。藩は豊かさを減らしてでも藩民の乏しさを補うべきだと藩主に教える。風の後に又風が随うと「57巽為風」藩主は命令が藩民に行きわたるように、丁寧にくり返し、くり返し藩民に説明を行うべき、藩民は風に乗るが如く命令に従うべきと教える。池の水面に風がなびき、波が生じると「59風水換(カン)」新風が来て一歩足を踏み出すと、別の一面で離散が生じる。大事なことを始めると、去る者がいるのは自然の理であると水面の波が表現する。山の上に風が吹き、樹木が風になびき成長している様子は「53風山漸」山また山の風景は物事が止まっているように見えるが、物事に終わりはない。樹木が成長するように徐々に進むのが自然の道理。結婚にならって正しく、落ち着いて人は前進して行くべきだと説く。地上に風が行く時は「20風地観」藩主は、風が地面をなでるように藩民の生活や行いを観察し、皆が豊かになるように政令を発し、教育を施すべきと教える。以上のように封建的な易経の教えを庭に明確に見せ、藩主に繰り返し自省させる庭だった。豊臣家の流れを受け継ぐが豊かでなかった足守藩であるが、藩主に自省を求める自慢の庭だったことだろう。すでに封建時代は遠くになった。赤穂城庭園、名古屋城庭園などの大名庭園を復活させる時代なので、この大名庭園も元に戻しても支障は無いはずだ。現在の会社は藩組織に似ているので、大名庭園から学ぶことは多い。鶴島にある歌碑を移出させ、眺望の妨げとなっている樹木を伐採し、大きくなり過ぎた木々の刈込を行い、風の通り道に松を植樹すれば近水園の本来の美しさを取り戻せ、会社勤めの現代人が共感できる庭に甦ると思った。