観音院のサツキ 

観音院庭園②

今回はデザイン、遥拝の観点から観音院庭園について書きます。

この庭を絵画として見た場合、画面中心に谷間を据え、谷間の上に扇形の大空を見せ、谷間の渓流水が瀧によってそのまま庭の池に流れ込んでいるように画いている。瀧の両側にそれぞれ逆扇形の芝面の築山を設け、池の手前を芝面とし池を芝で囲み、扇形に見せる空と逆扇形の芝面との間は深い樹木で覆うように画いている。色の濃淡で見ると、大空と芝面が明るく、両者に挟まれた山と谷の樹木が暗く、芝面に囲まれた池が両方の風景を映し、濃淡両方の色を水面上で融合させている。更に池の一部で池底を見せ、一部で見せないことで、天空に底がないこと、池の深さが判らないことを意識させるようにしている。

池が「心の池」に見えるのは、池が深い山の中にあるように見せていること。池が明るい芝面に囲まれ、深山の中に特別な池が存在しているように感じさせている。池の水が鉢の底に溜まった水のようにも見え、池の水面に芝面・樹木・大空の濃淡両方の色が映り、森羅万象を映しているように見せている。池の最深部が1.2mと深く、池底の一部しか見えない。瀧から池に流れ込む水の波が中之島にて消され水面が鏡面になっていることなどで心の池に見える。あちこちの庭に心字池はあるが、この庭の池は際立って「心の池」に見える。それはこの庭の優れたデザイン性によるものだと思う。

この庭は1650年(慶安3年)から10年を費やして作庭されたとされている。小堀遠州(1579年~1647年)の後の時代に造られた庭なので、小堀遠州の優れたデザイン技法を活用し、陰陽表現を抑え、爽やかに庭をまとめ、自然な刈込としたことで、このような名園が生まれたのだろう。

庭右側の広く明るい芝面を陽面とし、その陽の芝面上に、サツキで囲んだ簡単な枯瀧表現をした石組みにて陰面を加えている。三尊石の無い庭なので、普通ならば書院から目につくこの部分を遥拝の目印とするが、書院が向く庭の先には遥拝先が無いのでこの部分は「心の池」を深く堪能するためのデザインとなっている。

池の手前側に大きな平たい遥拝石を置き、池の中にズングリとして大きな石を置き、遥拝石とズングリとした石によって方向性を付けている。

池の対岸の水際、植栽の中に囲まれるようにして置かれた灯籠と、築山の芝面上に置かれた石にても方向性を付けている。三尊石を持たない庭だが、これらの石々によって庭の正面の先ではない、どこか特定の遥拝先を意識させるようになっている。

当寺の位置と各施設との関係をグーグル地図で調べると、江戸城幸橋門(江戸城見張り場所の一つ)と草梁倭館(釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯にあった)とを結んだ線上に出雲大社と当院があった。草梁倭館は広い土地だったので、起点の位置を草梁倭館の中心から、草梁倭館の敷地内に(起点を)少し動かすだけでこの線は出雲大社本殿、当寺観音院を同時に通過する。江戸においてこの線の周囲には長州藩主毛利家江戸下屋敷跡、勝海舟宅跡などがあるので、線上に鳥取藩と関係がある江戸施設があったのかも知れない。グーグル地図上では庭石の配置とこの聖なる線が一致するかどうかまでは判別つかないが、方向性を示すように置かれた庭石はこの線に沿ったものだと推測した。尚、江戸城幸橋門は将軍が増上寺に行く際に通った門。草梁倭館は李氏朝鮮にあった日本の外交、交易拠点だった。

当院唐門参道を東に伸ばすと総持寺(横浜)に到達した。参道を唐門に向って歩くことは曹洞宗大本山総持寺に向かって進むことにつながっている。

当院の書院、本堂など各建屋の縁を西南方向に伸ばすと、対馬、和多都美神社の奥の豊玉姫墳墓に到達した。本尊及び各建屋は豊玉姫墳墓を遥拝している形になっている。書院内から庭を鑑賞することは背後に和多都美神社を控え鑑賞することにつながっている。そう考えながら借景の谷間に視線を向けると谷間が神々しく感じられる。

書院など観音院各建屋の長手方向の縁に沿って線を北西に線を伸ばすと鳥取城三階櫓にピッタリと合った。書院内には鳥取城を背にした上段の間があったはずだ。

これらのことから推測するに、庭は二つの顔を持っている。一つは建屋の中から「心の池」に視線を落とし、心を池に集中させ心を休め、心を取り戻すための庭。もう一つは庭先に下り各遥拝ポジションにて目標石を見ながら遥拝するための庭。

観音堂付近から東方向に見る庭は鳥取藩江戸屋敷(丸の内3丁目)、或いは江戸城幸橋門方面を遥拝するためのもの。庭園右側の付近から東北方向に見る庭は鳥取東照宮を遥拝するためのものだと思う。グーグル地図上では具体的な遥拝ポイントと遥拝目印が特定できないのでもどかしいが、庭に遥拝ポイントに見える平たい石と、庭先にポツリポツリと遥拝目印となる石が置かれているので少なくとも遥拝庭園として活用していたことは見て取れる。

庭や建屋が草梁倭館-出雲大社-江戸城幸橋門のライン上にあること、鳥取港が出雲、隠岐を結ぶ海上交通の要だったので鳥取藩は草梁倭館、対馬藩を通し銀輸出など画策していたことが推測される。

藩主が草梁倭館、対馬藩との交易について画策する場として使っていた可能性も考えられる。

築山のあちこちに配置したサツキの花々が庭のあちこちで起きた炎のように見せている。その炎を池と対比させて楽しませている。炎に見立てたサツキの花と池の水にて、火と水とを同時に見せる趣向になっている。火と水という両極端なものを感じさせることで庭を印象深いものにしている。サツキが咲く前はツツジがその役割を果たし、秋はカエデの紅葉が同じ役割を果たしている。

谷間を庭の中心に据えた優れたデザイン性なのか、出雲大社、和多都美神社が庭を見つめる地勢になっているためなのか、これほど池を見せてくれる庭は少ない。池の中には飛び石のように石が配され、水の上ではスイレンが白い花を咲かせている。瀧に沿って植えられたツワブキが水の流れるラインを明確に示していた。近代庭園とは別次元の美しさがある。