念仏の庭 玄忠寺

荒木又右衛門の菩提寺

1800年に火災があり、1805年に現在の本堂、山門、鐘楼が再建されたので、庫裏庭園はその頃に築庭されたものだと思う。しかし三尊石を中心とした遠近法を使っているので江戸庭園ではなく近代庭園に見える。遠近法の消失点に比較的大きな石を立て、その両側に其々石が立て、3本の石で三尊石の石組みとしている。三尊石の前側に簡単な枯瀧表現がされている。浄土宗なので正面真中が阿弥陀如来、向って右が観音菩薩、左が勢至菩薩だと思う。三尊石のある低い築山上に法然上人の形をした石が置かれている。築山を取り囲むように植樹がされている。庭の右側に池へ水を送り込む水路の入口があり、水路の両側、入り口付近に一対の黄色い石が置かれている。水路の手前側の石が善導大師、水路の向こう側の石が法然上人に見える。庭のそれ以外の石は法然の弟子達であろうか。庭の石々は五色の石を使い別けている。池の護岸は多数の小さな石を組んで作られている。それらの石の頂点は多方向に向けられているので、まるで多数の人が念仏を唱えているように見える。この庭の築山は須弥壇であり、祈りの庭となっている。綺麗に剪定された多数のマツがあり、ツツジが花を咲かせている。イヌマキ、カエデ、赤い葉のノムラモミジ、シラカシ、タケなどが植樹され、池の水面はハスの葉で覆われていた。池の左側に石橋が架かっているので彼岸にいる築山上の石で表現した三尊菩薩や法然上人及び弟子達は何時でもこちらに来られるといった意味を持たせたのだろう。比較的小さな庭であるが、遠近法を使い、庭の手前側に大きな平たい石を並べ飛び石とし、対岸左側に法然上人のような大きな石を置き、三尊石をこれらの石に比べ小さな石としているので庭の懐が深く感じる。人の感覚は三尊石だけを集中して見ると心の中で大きく膨らみ圧倒的存在感となる。本堂、庫裏の正面は伊予高松城に向いているので、本尊及び庭の三尊石は伊予高松城を遥拝している形となっている。庭は伊予松山城を背中に感じて鑑賞する格好となる。本堂、庫裡の長手方向(東南方向)の先には勝尾寺がある。かつて勝尾寺住職が清和天皇の病気平癒の祈祷を行った。清和天皇が「勝尾山」に参詣したと伝わっている。1210年(承元4年)晩年の法然上人が滞在している。グーグル地図ではチェックしにくいが荒木又右衛門の墓も勝尾寺(大阪府箕面市)に向いていた。荒木又右衛門(1599年~1638年)の墓は1660年に寺と一緒に当地に移転してきたもので自然石墓だった。庭に陰陽表現はなく、庭鑑賞と遥拝とが重なっている訳でもない、強いて言えば庭の三尊石が伊予松山城を遥拝する方向に向いているので、伊予松山藩の人々と一緒に三尊石に礼拝する意に取れる。平坦な庭地の真ん中を掘って池にすることで対岸の低い築山を高く見せている点が優れている。池にハスを育てているのは宗教的意味合いがあるが水深を隠し深い池だと感じさせるためかも知れない。この庭が一番美しいのはハスの花とハスの実が見られる時だと思った。

白砂の坪庭があった。礎石も含め5色の石による石組みが優れているので築庭当初からの庭だと思うが、白砂は近年敷いたものではないかと思った。庫裏庭園も近年手を加えたのかも知れない。