鳥取城攻防戦を表現した興禅寺庭園

ハスの花が咲く興禅寺庭園

池の対岸に二つの築山、その背後の久松山に続く丘陵を借景としている。向かって左の大きな築山が「鳥取城」を、向かって右の小さな築山が「太閤が原」を模している。築山上の石々が鬱蒼と茂った樹木の中で異様に光っている。石々には戦場の匂いがする。当寺の庭紹介で池田光政が1626年(寛永3年)~1632年(寛永9年)に築庭した。もしくは寛永年間に造ったと推定していた。池田光政(1609年~1682年)が鳥取藩(32万5千石)を統治していたのは1617年(元和3年)~1632年(寛永9年)。父、池田俊隆(1584年~1616年)は関ヶ原の戦い、大阪冬の陣で参戦経験があるが、池田光政に戦争経験はない。常識豊かな名君である池田光政は戦争経験のある重臣の意見、鳥取城攻防戦を経験した人のアドバイスにて築庭したと推測した。本堂及び書院が久松山山頂の鳥取城天守閣跡、城跡をピッタリと遥拝する向きに建てられている。庭は鳥取城の本丸及びその付近を書院内から遥拝するため造られたと判読できる。幾多の鳥取城攻防戦の象徴である本丸(久松山の山頂)を遥拝しているので、本丸に籠城し開城と引き換えに自害した武将達、敗戦者となった武将達、勝者となった武将達を畏敬するために鳥取城攻防戦をモニュメント化したものだと思う。左右の築山上のそれぞれの石は各武将を当てはめたものだと推測した。総大将として鳥取城を攻めたのは山中幸盛(山中鹿介)、吉川元春、羽柴(豊臣)秀吉、亀井茲矩で、鳥取城は攻められる都度、落城している。多くの鳥取城攻防戦の中心的人物は山名豊国(元豊)である。1573年(天正元年)山中幸盛(山中鹿介)と組んで鳥取城を攻撃(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、勝利した山名豊国が鳥取城主になるが、同年、吉川元春(毛利元春)に攻められ降伏。私部城主、毛利豊元が城主になったが、翌年1574年(天正2年)尼子残党に攻められた毛利豊元は降伏。1575年(天正3年)尼子残党が鳥取城を退き再び山名豊国が城主に落ち着く。1580年(天正8年)羽柴秀吉(信長軍)による1度目の鳥取城攻めで3か月の籠城戦の末、山名豊国は和議により羽柴秀吉へ降伏、信長・秀吉に臣従した。その後、山名豊国から離れた旧臣たちが城を取り返し1581年(天正9年)毛利氏の重臣である吉川経家を城主に迎えた。同年、秀吉は彼らを一掃するため2度目の鳥取城攻撃をした。山名豊国は秀吉と共に自らの旧家臣が籠もる鳥取城を攻めた。城は兵糧攻めにより悲惨な陥落をした。1600年(慶長5年)関ヶ原本戦で山名豊国の上官だった亀井茲矩が、関ヶ原の戦いの後、鳥取城を居城としていた宮部一族(秀吉の旧臣)を攻め城下を焼き討ちし落城させた。尚、山名豊国は関ヶ原の戦いの功績により幕臣となり子孫は高級旗本として存続した。幾多の戦いの内、山頂付近で激戦となった戦いは(1573年)山名豊国と尼子再興軍による鳥取城の戦い。激戦で城は落ちず籠城戦にて開城させ、同年、山名豊国は武田高信を死亡させた。山名氏は六分の一殿と呼ばれた日本の六分の一を治めていた名家であり、山中氏、武田氏は同じ河内源氏の流れ、血族同士の戦いだった。関ヶ原の戦いの後、山名豊国は自らが死に追いやった武田高信の遺児・助信を捜し出し召し抱えた。武田助信の子孫は代々山名氏に仕えた。山名豊国は幾多の鳥取城攻防戦に関わり、一緒に戦った武将達、敵将達の中で、一番長生きした。庭の中心石として一番ふさわしい。左側築山(鳥取城を模した築山)の一番上の小さな石が中心石となっているので、これが山名豊国をモデルとした石だ。中心石に向かって右下の石は1573年、山頂付近での激戦を一緒に指揮した山中幸盛、向かって左下の築山に埋まっているような石は、その激戦を防御し抜いたが、山名豊国の謀略で開城し、亡くなった武田高信がモデルと推測した。多くの攻防戦中、一番悲惨な結果となった戦いは1581年(天正9年)、秀吉が行った2度目の鳥取城攻め、籠城側は多数の餓死者を出し、城兵の命と引き換えに吉川経家、森下道誉、中村春続が自害した。中心石に向かって左側、武田高信の石の左隣の首に切れ目があるような石が吉川経家、その下の二つの石がそれぞれ森下道誉、中村春続と推測した。この籠城戦の勝者、秀吉は築山右手上、猿のような顔をした縦長の石と推測した。もう一つ、激烈な戦いは(1600年)、亀井茲矩による鳥取城攻撃、激しく攻めたが城を落とせず、城下を焼討して落とした。モデルの石は山に向かって右側下、秀吉石の下側の石と推測した。この戦いの敗者の石は判読つかなかった。この左側築山を観ると、右半分の石々が攻防戦の勝者、左半分の石々が敗者としていることが判る。私部城主、毛利豊元は1580年(天正8年)羽柴秀吉によって私部城(市場城)が落城させられたので、山名豊国の鳥取城へ逃れた。その後、秀吉の一度目の鳥取城攻撃を受けた。1580年(天正8年)秀吉の二度目の攻撃で、吉川経家の切腹により開城すると毛利豊元は行方不明となり、200余年続いた因幡毛利氏は滅亡した。おそらく左側築山の池の水に接する築山中一番大きな石が毛利豊元をモデルにしたものだろう。右の小さな方の築山(太閤が原を模した築山)の石々は攻撃体制をとっているように置いてある。誰をモデルにしたのだろうか。1573年、鳥取城を守っていた山名豊国を攻めた吉川元春(毛利元春)をモデルにした可能性があると思う。赤いサツキの花がとても印象的だった。観音院で見た炎のように咲くサツキと池の水との対比を思い出した。この庭における火と水の対極的表現は緊張感となって迫って来る。カエデが紅葉する季節は池が真っ赤に染まり激戦風景となることだろう。池に水が流れ込み、井戸があり、深い山の緑が陰で、築山の石組みが陽、陰陽対比すると陰の方が強い。強い陰の中で築山上の石々が宝石のように輝いて見える。カエデなど落葉樹の葉が落ちて、借景の久松山系の丘陵の見通しが良くなり、幹と幹との間に青空が見える季節、開放感が生じる冬が一番爽やかだと思う。スイレンの葉が池の水面を覆い、あちこちに花が咲いていた。スイレンの花言葉「滅亡」がこの庭にふさわしい。鳥取城に立て籠もれば滅亡する。それを教訓とするため池田光政はこの庭を造ったのかも知れない。弔いの意味を込めた庭の端にキリシタン灯籠が置かれている。しかし島原の乱は1637年~1638年なので、キリシタン弾圧後、後から置いたものでないだろうか。主に日露戦争の情景を庭に刷り込んだ重森三玲が「絵画的表現美を誇る意匠」とこの庭を絶賛したのは、この庭が鳥取城攻防のモニュメントだと見抜いたからだろう。当寺庭解説による築庭推定年は1626年(寛永3年)~1632年(寛永9年)、まるで山名豊国(1548年~1626年)が亡くなるのを見届け築庭を開始したように感じる。攻撃の勝者、山中幸盛(1545年~1578年)、豊臣秀吉(1537年~1598年)、亀井茲矩(1557年~1612年)はすべて山名豊国より先に亡くなっている。