和意谷池田家墓所

池田光政と津田永忠の偉業地

墓所入口、鳥居手前の駐車場に駐車した。北方向に見晴らしが良い。鳥居を潜り東方向へ伸びる参道に入る。右側(南側)は明るく開け谷の向こうに山が見える。左側は樹木が育ちツバキが赤い花を咲かせていた。左側も谷になっている。少し歩くと右側に「和意谷青少年自然の家」(倉庫跡)がある。このあたりから参道は両側が大木で覆われ緑のトンネルとなる。参道を少し奥に進むと左側に竹林が見える。竹林は比較的広い平地にあるので、この平地が「藩主お茶屋跡」と見て取れる。森を守るためにタケを綺麗に伐採すべきだと思った。参道は弯曲し東北方向の「一のお山」など墓所に向かっている。アラカシ、ウラジロカシ、シラカシなど背の高い常緑広葉樹、多数植えられた背の高いスギ、ヒノキ、見事な大木となったモミノキ、それら背の高い木々で覆われた参道両側には多数のツバキが見られる。参道踏み石(列石)に沿って奥へ奥へと登る。クヌギ、コナラなど多数の落葉広葉樹の大木がある。「お茶水井戸」や参道左側の石垣の石と石との間に隙間が無いことに驚嘆する。参道右側は谷となっている。あちこちで低木のアセビが目に入る。藩主邸のある岡山城(後楽園)から直線距離で33㎞も離れた往復に数日かかる備前の東端近く、山奥になぜ池田家墓所を建立したのかと思った。参道は山道そのもの。池田家墓所は独立した一つの山を利用して作ったことが実感できる。「一のお山」に到達、一目でここは墓所に名を借りた山城だと気付いた。「一のお山」は櫓を組んで観測点とするのに適した山頂にある。山の木々を伐採し、その材木で石垣上に櫓や柵を設け、あちこちに空堀を掘れば短期間で山城が完成するようになっている。池田光政が池田家墓所を作った1667年(寛文7年)から1669年(寛文9年)は江戸時代最大の内戦、島原の乱(1637年~1638年)が終わって約30年経過した太平の世、築城など許されるはずがない。北に数キロ先の英田郡(現、美作市の一部)は美作津山藩領地であったが、1698年(元禄11年)越前松平家が10万石で入部後、英田郡の大半は上野沼田藩が飛び地管理する地、実質は幕府統治地域となった。東に2キロ先の赤穂郡(現、赤穂郡、赤穂市、相生市)は大問題を起こした歴史がある。1645年(正保2年)赤穂藩主、池田輝興(1611年~1647年)が正室や侍女数人を斬殺し改易となり、池田輝興は犯罪者として岡山藩、池田光政に預けられる身となった。1701年(元禄14年)赤穂藩主、浅野長矩(内匠頭)が江戸城中で吉良義央に斬りつけ赤穂事件を起こした。結果、赤穂郡は赤穂藩領地、幕府領地、その他の藩領地に分割された。美作郡同様に幕府が中心となって統治する地域となった。佐用郡も1698年頃には幕府領、旗本領、藩領と細切れとなっていた。この池田家墓所を作った当時、北の英田郡と東の赤穂郡を幕府が直接管轄する地にする動きが有ったはずで、池田家墓所のある当地区も幕府に割譲させられる可能性があったと思う。備前国の一部が幕府に割譲されることを避ける為、近隣藩とのトラブルを避けるため、当地及び近隣藩の住民に岡山藩の威光を見せるため、池田光政と津田永忠が山城に転用できる墓所を作ったことが推測できる。「一のお山」は池田光政が建立した池田輝政(1656年~1613年)の墓地で、周りには多数本のヒノキ、2本のアカマツ、そしてアラカシ、シラカシ、落葉広葉樹が育っている。墓碑に「源輝政」と刻まれていた。清和源氏の血筋でなければ江戸時代において大大名でいられなかったこと如実に物語っている。1630年(寛永7年)池田光政(1609年~1682年)が鳥取藩主だった時、叔父、岡山藩主だった池田忠雄(1602年~1632年)が寵愛していた小姓の殺害事件が起きた。これが原因で池田忠雄は毒殺されたと伝わり、1634年(寛永11年)「鍵屋の辻の決闘」に至った。1632年、池田忠雄死去後、岡山藩は息子、池田光仲(1630年~1693年)が継いだが、幼少だったために鳥取藩に移封され、入れ替わりに池田光政が岡山藩へ移封された。岡山藩主となった池田光政は同性愛者を激しく弾圧した。池田光政は庶民のために閑谷学校を開校した。神仏分離を行った。被差別民を一般の百姓と差別しないように命じた。藩の財政を立て直すために自ら倹約に勤めた。今も岡山市のレストランの食事は他地域に比べてレベル差がある。それほどに池田光政の政策は岡山に浸透している。岡山藩組織をいち早く近代化させた功績は大きい。長男の池田綱政は津田永忠らと児島湾干拓を推し進め豊かな財政藩とした。彦根藩と同じく明治維新時に健全財政であった。備前と近江に多くの名庭園が今に伝わるのも藩経営が他藩に比べ優れていたからだろう。池田光政(1609年~1682年)は祖父、池田輝政(1565年~1613年)を「一のお山」で祀り、父、池田利隆(1584年~1616年)を「二のお山」で祀り、父の異母兄弟5名の内1名(末っ子)池田輝興(1611年~1647年)、弟、池田恒元(1611年~1671年、播磨山崎藩初代藩主)、その子、池田政周(1656年~1677年、播磨山崎藩2代藩主)、池田輝尹(~1679年)を「六のお山」で祀り、父の同母弟、池田政虎(1590年~1635年)、池田利政(1594年~1639年)、弟、池田政貞(1613年~1633年)、娘、六姫(1645年~1680年)を「七のお山」で祀った。短期間にこれだけ立派な墓を数多く立てた人は少ないと思う。「二のお山」池田利隆墓碑には「源利隆」と刻まれていた。墓の背後は落葉広葉樹、その外側に常緑広葉樹が植えられていた。「三のお山」池田光政墓碑には「源光政」と刻まれていた。墓相を考慮してのことか「一のお山」とは違い、山頂に墓を設けず、墓の背後に山頂がくるようにしている。背後の山頂に常緑樹を植えず、落葉広葉樹を植え、山頂を意識させるようにしている。常緑樹の背後山頂を越えたところは常緑広葉樹を植えている。ここにはアカマツが見えない。墓の左右と手前側はスギ、ヒノキ、どちらかと言えば墓に向かって左側に多数のスギを集中させ、墓手前側に多数のヒノキを集中させて植えている。ツバキも見える。「六のお山」池田輝興(1611年~1647年)の墓碑には「源輝興」と刻まれていた。池田恒元(1611年~1671年、山崎藩初代藩主)の墓碑には「源恒元」と刻まれていた。「七のお山」に向かって歩いた。途中、空堀を越えた。「七のお山」まで後300mくらいの地点からきつい下りになっているので歩くのを止め「六のお山」に戻ったが、きつい下り坂であること、「七のお山」は小さな山頂を利用しているので防衛地点としての地勢がある。私が折り返した地点付近に立派なアカマツが育っていた。航空地図で見ると、全ての各お山の墓の向きを判別できる訳でないが、墓石を囲む境界石の南北方向は鳥取藩主池田家墓所に、東西方向は吉田城に向けてある。吉田城は天正18年(1590年)池田輝政が東三河4郡の城主となった池田家の聖地である。池田光政は京都妙心寺護国院から祖父、池田輝政(1565年~1613年)・父、池田利隆(1584年~1616年)の改葬を行ったが、当墓所は儒教式とした。池田光政の長男、2代藩主池田綱政(1638年~1714年)は池田恒興(1536年~1584年)と父、池田光政(1609年~1682年)の菩提を弔うために1698年(元禄11年)曹源寺(臨済宗妙心寺派)を創建したが、池田恒興と父、池田光政の墓は曹源寺に設けなかった。参拝後、登ってきた参道を下った。登る時に見上げたモミノキの大木をもう一度見上げた。当墓所ではクスノキなど三行脈(掌状脈)の葉を持つ常緑広葉樹を見かけなかった。サツキやツツジの大刈込や丸刈りを一切見かけなかった。庭らしい跡も見かけなかった。もし藩主お茶屋跡に庭があったとしても構造簡単な借景庭園、鳥取藩主池田家墓所遥拝庭園だったと思う。真っ直ぐ天に伸びる幹をもつモミノキ、スギ、ヒノキが多かった。墓は縦線を強調したデザインとなっていた。それらが、当墓所をスマートに見せている。岡山藩の美的レベルの高さが、現在、岡山市民の手で往時の美しさのまま後楽園を維持管理していることにつながっていると思った。閑谷学校と和意谷池田家墓所はセットで、当墓所全体で鳥取藩主池田家墓所と吉田城天守閣を遥拝する形となっている。池田家安泰の祈りに包まれている。