曹源寺

池田綱政の思いを偲ぶ庭

曹禅寺口から本堂まで貫かれた約420mの端正で美しい参道は、曹禅寺口から約300m地点で総門を潜る。本堂裏から墓所への階段通路約30mも一直線参道の線上にある。この参道の中央線は本堂のど真ん中を通過する。中央線を南北に伸ばすと北に約9.7㎞先の高蔵神社へ、南に約9.4㎞の先の城山(標高169m)山頂付近(山頂より西へ約10数mの地点)へ至る。児島半島の城山山頂付近と高蔵神社とを結んだ線の略中間に当寺本堂を建てた事が判る。この線をA線と呼ぶ。参道入り口(崇禅寺口)の右端(門に向かい右側)を起点とし松並木参道右側に沿わせた線を北に13.3㎞伸ばすと(備前)上地山の山頂に到達し、南に城山山頂から東に10数mの地点に至る。この線をB線と呼ぶ。マツ並木参道入り口(曹禅寺口)の左端を起点とし松並木参道左側に沿わせた線を北に45㎞伸ばすと津山城天守閣跡の中心にピッタリと到達し、南に金甲山山頂から東に50m地点に至る。この線をC線と呼ぶ。B線とC線は本堂のすぐ北側、池田家墓所のA線上で交差している。一直線の参道の中央A線上を本堂と池田家墓所に向かって歩くことは城山を背にし、高蔵神社に向かって進むこと。B線に沿って歩くことは城山を背にして上地山に向かって進むこと。C線に沿って歩くことは児島半島を背にして津山城に向かって進むことになる。気になったのが武装将兵がC線に沿って進むことは津山城進軍を意味するのでないか。開山堂、山門(三門)、総門、本堂など建屋は津山城天守閣にピッタリと向け建っている。境内の天台寺、大光院、及び池田家のいくつかの墓背後も津山城天守閣中心にピッタリと向いている。A線において、本堂と高蔵神社との間、本堂から約7.5㎞地点で、A線から50m東側に上述の高蔵神社と同じ名前の神社がある。A線から20m西側に牟佐大塚古墳がある。B線は牟佐大塚古墳を通過する。尚、牟佐大塚古墳近くの高蔵神社の階段参道と社は城山に向いていて、城山とこの社とを線で結ぶと、その線は当寺書院を通過する。これらのことから本堂で礼拝すること、墓参りすることは児島半島を背にし二つの高蔵神社、津山天守閣、牟佐大塚古墳を拝むことにつながっている。総門を潜り境内に入ると中央に参道があり、総門と山門途中の放生池で石橋となっている。放生池手前、山門に向かって右側に枝を参道側に伸ばすマツがある。左側のマツは枯れ根元から切られた跡がある。株だけを残すマツに向かって一列の石組みがあるので、マツと石組みとで龍が天に昇る意匠があったことが見て取れる。左右のマツにて夫婦龍とし天に駆け上る姿を表現していたことだろう。天に昇った龍はどこに向かうことを想定し境内の設計をしたのだろうか。放生池の石橋を渡った所の参道両側は天に向かって真っ直ぐに幹を伸ばす多数のヒノキ、スギ林となっている。山門前のヒノキ、スギの幹の細いものは戦後に植えられたものだろう。山門に向かって右側のヒノキ、スギ林の中央に1本のマツが天に向かい真っすぐに幹を伸ばしている。このマツは幹が太いので相応の樹齢を感じる。創建当時のマツかも知れない。山門に向かって左側の林の中央にマツは無いが、略左右対称に整っているので創建当時には右側と同じく天に向かって真っすぐに幹を伸ばしたマツがあったはずだ。山門前のほとんどのヒノキ、スギの樹齢が浅いので、戦前までここにヒノキ、スギと共に多数のマツが植えられ、総門前のマツ並木につながるようなイメージとなっていたのかも知れない。山門を潜ると参道左右にヒノキ、スギ林が広がる。整然と配置されている。左右の中央にそれぞれ1本ずつ、太い幹を持つマツが天に向かって真っ直ぐに伸びている。左右のマツは創建当初からのものと思えるほどに幹が太い。山門内のヒノキ、スギ群の幹は山門前のヒノキ、スギより幹が太く、創建当時に植えられていたヒノキ、スギもあるように見える。推測だがこちらも創建当時はマツが現在より多かったように思う。参道は本堂前で左右(東西)に直角に曲がりそれぞれの方向に整然と伸びている。左右の参道に沿うようにサツキの丸刈りが並び、マツが低く育てられている。経堂方向(西方向)への参道を西に伸ばすと18.6km先の作山古墳に至った。東方向への参道を東に伸ばすと172㎞先の石上神社に至った。本堂、庫裡、開山堂、山門、総門及び境内の大光院、天台寺建屋、放生池の向きはことごとく西に作山古墳を、東に石上神社を遥拝する方向に向いている。岡山城後楽園主要建屋は西に備中国総社宮東を、東に石上神社を遥拝する向きに建っているので、当寺と後楽園は東に石上神社を遥拝する点で同じだ。当寺は作山古墳と石上神宮に向かい低頭伏顔しているが如く地割を行い、建屋を建てている。開山堂で拝むことは作山古墳に向かって礼拝することにつながっている。作山古墳と(奈良)石上神宮とを線で結ぶとその線は池田家墓所、墓碑を通過する。先ほどのA線、B線、C線が交わる点でクロスする。墓と建屋に沿って西を見ることは作山古墳を遥拝することに通じ、東を見ることは石上神宮を遥拝することに通じる。作山古墳は当地の鎮守神として5世紀中頃から信仰されてきた。このクロス点を墓所としたことも読み取れる。石上神宮にはご神体となっている布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)がある。この剣は「スサノオがヤマタノオロチを斬ったときの剣」「タケミカズチの神による葦原中国平定の剣」「高倉下が神武天皇に持参した大和の征服に大いに役立った剣」と伝えられている。中国地方攻略の象徴的な剣である。よって、当寺は5世紀中頃に岡山を当地していた豪族、当地の鎮守神を敬う方向と、中国地方攻略の象徴的な剣を敬う方向、その両方に建屋、墓を並べて建て、東西方向の参道もこの方向に沿わせることで、備前国の成立と地鎮の聖地の線上に当寺と池田家墓所を設け、池田家が備前国に受け入れてもらうことを祈願する形としたことが読み取れる。本堂前から経堂を眺めると、経堂は朝鮮及び中国の建造物と同じだと感じた。そこで経堂への参道の先にある作山古墳に向かう線を更に西に伸ばすと釜山の南の巨済島に到達した。対馬へ向かって漕ぎだす巨済島を聖地と見立てたと推測した。岡山城後楽園でも同じことが見られた。後楽園は西に備中国総社宮を遥拝しているが更にその先には巨済島がある。当寺からの巨済島遥拝点と後楽園からの巨済島遥拝点は近いところにある。明治以降に建てられた池田家の墓は向きを津山城に合わせず若干角度を変え、石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)にピッタリと合わせている。石上布都魂神社はスサノオがヤマタノオロチ退治で使用した剣(石上神宮のご神体)についた血を洗った伝説地で、その伝説地を御神体とした神社である。明治以降建立の墓は墓参りと、石上布都魂神社への礼拝とを重ねている。本堂で拝むこと、江戸時代に建立された墓を拝むことが津山城天守閣を拝むことにつながっていることが気になる。因果関係など判るはずもないが、曹源寺建立の翌年1697年(元禄10年)、津山藩森家は断絶し美作国約18万石の領地は幕府に召し上げられた。翌年1698年(元禄11年)津山藩に入部した徳川家康の血を引く松平宣富(越前家)は10万石。8万石は細分化された。松平家の津山藩は1871年(明治4年)廃藩置県まで続いたが、慢性的な財政難であり、歴史に残るほどの大規模一揆が多数回発生している。1873年(明治6年)美作国で発生した一揆では、一揆を起こした民が被差別部落民に一揆への参加を強要し18人を殺害した。それに比べ備前岡山藩では幕末の1857年に被差別部落民による強訴はあったが一揆と呼ぶような打ちこわしではなかった。岡山藩は質素倹約を旨とし米・塩の増産により豊かであり続けた。池田綱政は豊かな藩にした名君だと思うが、「生まれつき馬鹿」「愚か者で分別がない」と評された訳は菩提寺の参道、建屋、墓の方向を隣藩、津山藩天守閣に向けるようなこと。そのような態度を評されたものかも知れない。現在も当寺が元気に継続されているのは伽藍を作山古墳と石上神宮に低頭伏顔し、児島半島の城山を見守り、墓の背後を隣藩の津山藩天守閣に重ね合わせるなど陰の力を得ることを考慮した点にあるのかも知れない。池田綱政の父、池田光政から明治に至るまでの池田家は岡山藩をうまく経営し財政難もうまく切り抜けた。民に不満を抱かせることもなかった。それに対し津山藩は慢性的財政難、一揆に苦しみ続けた。岡山後楽園は今も大名庭園の姿をそのままに岡山市民の手で維持管理されている。当寺と閑谷学校が往時のままの姿で維持管理されていることが岡山城後楽園を守ることにつながっているのだろう。それに対し津山の衆楽園は規模が縮小され、建屋が取り壊されて庭の中心が見当たらず(おそらく庭一番の見所を骨抜きしたのだろう)、池護岸にセメントを使うなど大名庭園が持つ特徴が分散され、散策公園として維持管理されている。当寺は1698年(元禄11年)、岡山藩2代藩主池田綱政(1638年~1714年)が家臣の上坂外記に造営を命じものだが、当寺の遥拝先の選択は後楽園と似ている。池を中心とした庭は津田永忠が築庭したと伝えられているので、当寺の造営にあたって津田永忠(1640年~1707年)が意見を述べたと思う。本堂前の参道を東に向かって進み、庭の入口に到達した。庭の入口でコインを木箱に投入し、イヌマキの大刈込に沿って歩き庭に入った。庭は池と築山とで構成されている。築山は城の形をしている。築山に置かれた石は踊っておらず城のようにどっしりとしている。当寺が菩提を弔っている池田恒興(1536年~1584年)が城主だった城は犬山城、兵庫城、大垣城。池田輝政(1565年~1613年)が城主だった城は池尻城、大垣城、岐阜城、吉田城、姫路城。池田利隆(1584年~1616年)が城主だった城は姫路城。当寺が菩提を弔っている池田光政(1609年~1682年)が城主だった城は姫路城、鳥取城、岡山城。築山は池が城を囲っているようなデザインなので、モデルは川、海の傍にある城とすると犬山城、兵庫城、岐阜城、吉田城、岡山城となる。池田家の聖地である吉田城と当寺とを線で結ぶと、その線は兵庫城跡付近を通ったので、吉田城と兵庫城とをモデルとしたのだろうか。当寺を創建した池田綱政(1638年~1714年)の最大の事業は児島湾の干拓だったので、当寺が南に遥拝している児島半島の城山なのだろうか。それとも築山は犬山城、兵庫城、岐阜城、吉田城、岡山城、城山のすべてを合わせたものなのだろうか。築山を観察すると多数の石が立てられ、枯瀧石組みがある。西日を受けた築山は明るく水面に浮き上がっている。平らな面をもつ石々は太陽光を受けて輝き、西の作山古墳が放つ聖なる光を石々が反射させ建屋(書院、庫裡、茶室)内に取り込むイメージが作られている。書院側から建屋に沿って築山を見ると、築山中央の枯瀧、長手方向に立てられた二つの石が石上神宮を遥拝する目印となっていて、その二つの石の間から石上神宮を水源とする聖なる枯水が流れて来たようにも見せている。個別の石はそれぞれ犬山城、兵庫城、大垣城 池尻城、岐阜城、吉田城、姫路城を遥拝する目印として置いたと推測するのが妥当なのだろうか。ちなみに本堂と伊勢神宮外宮とを結んだ線は中哀天皇陵の角をかすめ、応神天皇陵を通るので、築山左端の石は富士山を、その隣の大きく光る石は久能山東照宮を、右端の石々は伊勢神宮外宮、伊勢神宮内宮、築山右手のこまごまとした石々は羽曳野古墳群の各古墳を遥拝するための目印(遥拝石)としたとも判読できるのだろうが航空地図では正確に把握できないので結論付けできない。築山が一番綺麗に見えるポイントから正確に各石の先にある遥拝先を測量すれば遥拝先が特定できると思うが、閑谷学校が和意谷池田家墓所、鳥取藩藩主池田家墓所を遥拝していた点、当寺伽藍が北に津山城天守閣を遥拝する形からして、それぞれの石は歴代池田家が藩主を勤めた城を遥拝するための目印、左側の白く光輝く石は姫路城を模したと考えるのが妥当なのだろうと思った。ちなみに築山右手は石組みと樹木にて影が生じる部分があり、更にその右手の石々は木々の陰の中にある。築山上に陰陽をつけている。池はそれほど深い池ではないが、池の色は緑色に濁っており陰に籠っている。築山は太陽の光を十二分に受けて光っているので池がより深く沈んで見える。築山中でも石組みで陰を含ませている。池と築山の背後は深い森で陰の世界。森の上空には陽の青空が広がっている。陰陽の差を大きくメリハリをつけて見せ、陰陽を協調させている。しかし、儒教にあまり興味の無かった池田綱政の意向によるものだろうか、閑谷学校の校庭や岡山後楽園のように天候の変化を易経の象意に当てはめ楽しむ庭ではない。静かに品よく置かれた遥拝石を眺めて心を落ち着かせる庭だ。庭の形は鳥取興禅寺庭園に少し形は似ているが、石々が個性を主張している訳でもなく、武将面していない。この庭は戦国時代が更に遠い時代となったことも実感させられる。現在、当寺で多数の欧米系外国人が修行を続け、臨済禅の国際的発信地となっている。文化の匂いが漂う魅力的な寺院である。庭の鑑賞を続けていると外国人修行僧が私の傍を通り抜けられ、日本語で挨拶して下さった。ここは江戸文化が花開いた時代に作られた寺であり池田綱政、津田永忠の備前安泰を望む強い信念が込められている。この庭は平和な時代にこそ輝くのだろう。外国人修行僧が出てこられたアラカシ大木の奥に入って見た。入るとすぐに池田家墓所へ向かう道が続いている。墓地入口には放生池があり石橋が架かっている。周囲は竹林となっている。高木の常緑樹で覆われた墓地入口あたりから山の方を見ると幹と幹との間から比較的遠くまで見渡すことができ、幹と幹との間に風景が消えていく。そのさまが幽玄な地に足を踏み込んだようで良い。振り返れば木々の幹の間から築山と池とが霞のように見える。現世から離れた地に入り込んだように感じる。墓地入口、石橋付近が少し暗いとも感じた。築庭当初、池の周囲はアラカシなど大木となる広葉樹ではなくマツが植えられ、石橋周囲もマツ林だったのではないだろうか。築庭当初は池の手前にシダレザクラはなかったはずで、池周囲を庭が明るくなるマツでまとめ、今よりずっと明るく広く軽快な感じの庭ではなかったのだろうか。池周囲のマツ林群の背後にアラカシなどの大木になる常緑広葉樹を育て、大木の陰に陰を好むカクレミノ、アオキを配する後楽園のような樹木構成としていたのではないだろうか。池庭に戻り、次に一目で近代に改造されたことが判る天空の変化と連動しない書院付近の庭の飛び石に沿って建屋方向に歩いた。飛び石が庫裡の裏まで続いている。庫裡の裏(北側)は陰の庭となっている。この庫裏裏庭の一番奥の石階段の先、小さな扉から池田家墓地内に入れるようになっている。庫裡北側の庭の中心石は築山上に細長い方向に立てた石だと思う。その石のすぐ右側(手前側)は略垂直の石垣となっていて、石垣の下には石組みされた排水口の出口がある。その脇には井戸がある。中心石を見て左側(奥)の築山はなだらかな下りとなっているが、築山の足元にも石組みされた排水口の出口がある。墓地の地下水を排出する二つの排水口の出口及びこれにつながる石組みされた排水路、墓地に近い井戸、地底の陰の世界を感じるに十分すぎる。不安定な形の築山、築山の頂上に不安定に置いた蝋燭のような中心石。霊界である池田家墓地がすぐ後ろに控えていることを十二分に感じさせる庭となっている。中央には亀島があり、モッコクが植えられ石灯籠が1本立っている。庭の上部中心に立っている中心石で鶴を表現したのだろう。この庭の奥には多数のツバキが植えられ、庭の中には多数のカエデが植えられている。春はカエデの若葉が美しく、夏は庭に降り注ぐ強い太陽を遮り陰の庭に深みを添え、秋はカエデが庭を血染めする。カエデが葉を落とす寒い冬、庭の本質が浮かび上がる季節にはツバキが花を添える。庭中央の石燈籠の火袋は、東に丸、正面と背面に格子、西に三日月に開けられている。この石灯籠は庭に溶け込んでいる。城山-津山城天守閣の南北線(A線)が灯籠の火袋を貫通しているはずだ。武家庭園らしさが滲み出た味わい深い庭で墓所と対話する庭だ。もと来た方向に飛び石をつたって戻る。陰の庭の出口に春先に甘い香りを放つジンチョウゲの丸刈りがあった。この花の匂いは辛い冬の修行の終了を告げることだろう。このあたりの近代に改造されたと見受けられる庭は足元に白砂が敷かれその中央にドンと大きな波が立っている。大きな石が枯池に投げ入れられ水が富士山のように隆起した形になっている。悟りの瞬間を表現したものなのだろうか。波の音が聞こえてきそうである。江戸時代の作品部分は渋い美しさを放っている。書院から池と築山とを望むと正面下側にヒノキの刈込、その先にシダレザクラ、左側にサツキ、ツツジの大刈込、ソテツ、右側にモッコクの古木が見える。書院南側、茶室前のコケは掃除が行き届いているので絨毯面のようになっていた。武家の露地らしく簡素な中に心に沁みる美しさがある。梅雨の季節は綺麗なことだろう。庭及び境内全体、修行僧の手で隅々に至るまで掃除が行き届いている。参拝を終え清清しい思い、頭が下がる思いを持って参道を下った。当寺は児島半島にある城山を見つめている。児島はイザナギ、イザナミが国造りを行った際に生まれた島。つまりは源氏の祖先達が日本統一の為に占領した島で、埋め立てられた藤戸には重要航路の海峡があった。城山はイザナギ軍が占領した水軍基地のシンボルだったのかも知れない。池田綱政、津田永忠は児島湾に大掛かりな干拓を行い岡山藩の財政再建を行った。児島半島は岡山藩財源の重要地であった。藩主が墓参りを終え、参道を下ることはご先祖に見守られながら城山及び児島半島へ向かうことにつながっている。池田綱政が児島半島干拓事業に思いを馳せ、後楽園に戻る形となっている。但し、背後に津山城天守閣があることは気になる。池田綱政に津山藩併合願望があったのだろうか。津山藩を併合すれば鳥取藩、津山藩、岡山藩にて西日本の海上、陸上両方の交通要所を押えることができる。池田家一族の幕府内での権勢は大きなものとなる。政変時に津山藩を併合する準備は怠らないことを当寺にて表現したのかも知れない。