心の池 観音院

観音院庭園①

鳥取藩初代藩主 池田光仲が築造させたといわれている庭園。

書院内から座って庭を見わたすと、庭の中央に「心」の字を模った池が有り、池の中には大きな鯉が泳いでいる。その池を取り囲むように丘陵、その先は山につながり、山の上に空がある。山から心の池に水を流し込む瀧が見える。清々しい水音が庭内にこだましている。座って庭を見ながら囲まれた空間に響く瀧音を聞いていると、山につながる丘陵の角度がどんどん急角度になり、しまいには山がすぐ傍に迫って来て、まるで大きな鉢(はち)の底に座り、流水音を聞き、鉢の口を見上げているような錯覚に陥る。

心は水を張った池のようなものだと語っている。綺麗な池は澄んだ水が流れ込むことで綺麗になり、汚れた池は汚水が流れ込むことで汚れる。綺麗な心は綺麗な知識や情が流れ込むことで造られ、汚れた心は汚れた知識や情が流れ込むことで造られる。綺麗な心は綺麗な環境でのみ造られる。心が汚れるのは汚い環境にいるからだ。心が動くとは池の水が動くように心に波動が生じること。感動とは他の心の波動が私の心の波動を動かすこと。愛し合うとは自他の心の波長が合うこと。池の水面が空、樹木など周囲の情景を映し出している。人の心の表面も周囲の状況を映している。人の心を一見して感じるものは表面に映し出された情景にすぎない。その人の心そのものではない。

池を覗きこんでも透明な水は見えない。判るのは澄んだ水か濁った水か。池底が見えるか見えないか。他人の心を覗き込んでも何も見えない。判るのは澄んだ心か濁った心か。自分自身の心を覗き込んでも同じく澄んだ心か濁った心かしか見えない。綺麗な心は心の底まで見え、濁った心は心の底が見えない。

池の中にクッキリと見えるものは水中に泳ぐ鯉。心の中に明瞭に見えるものは煩悩のみ。自分や他人の心を覗き込んで見えるのはその心のなかで動く欲望、怨念、妬み、苦悩など。追いかけるだけ無駄だ。追いかければ追いかけるほどに心の池が濁る。書院から庭園を鑑賞し、ふと部屋の両側に眼をやると、それぞれの床の間に見事な鯉の絵が掛けられていた。心の中に映し出されているものは心そのものでない、心に囚われ動く煩悩だ。それに囚われるな。池の中の鯉は勝手に泳がしておけ。心の中で泳ぐ欲望、怨念、妬み、苦悩など勝手に泳がしておけと語りかけてくれる。

日本人は自分探しが大好きだ。自分の器(心の外側)を形作った歴史、器に流し込まれた知識と情の内容。器の大きさ。流し込まれた知識と情がどのようなことに対し感動する心になったのか探したがる。心そのものは見ることができないので興味のあること、感動するもの、自らの経歴と照らし合わせて自らの心を探るしかない。

座禅、念仏、読経、写経、瀧行、歩行、護摩行など煩悩を心から去らせる行だ。これらの行を通して天地(宇宙)に流れる波長と自らの波長とを合わせることができる。行の前提は心を綺麗にしてくれる環境にいること。綺麗な心を持たなければ行は成果が上がらない。綺麗な環境で暮らせない一般人が修業僧の真似事をしてはいけない。逆に綺麗でない寺では修行がなりたたない。

悟りの瞬間、仏と一体になった瞬間とは天地(宇宙)に流れる波長と自分の心の波長とがぴったりと合った瞬間だと思う。池の水面を現在とすると、水面下は過去、水面より上は未来。池の水面を外の世界と接する心の表面とすると、水面下は自らの心、水面より上は宇宙(森羅万象すべての世界)。悟りの瞬間とは過去、現在、未来がぴったりと合致した瞬間、自らの心と宇宙とが一体になった瞬間だと思う。悟りの瞬間、水面そのものが消える。自らの心と宇宙との境がなくなる。悟りとはそのようなことではないのだろうか。愛と悟りは自他の波長を合わせる面で似ているが本質の所で異なる。

我々一般人にできる日々の努力とは池を綺麗にするように、自らの心に綺麗な知識と情を流し込み続け、煩悩によりよどんだ知識と情を排出し続けること。自らの心に心地よく、他人の心に心地よい綺麗な社会を作るため、自らができることを行うだけ。そのために人は生かされているのだろう。

この庭の池はそれほど澄んでいる訳でないが心について語ってくれる。この庭は晴天が続いたら水音がしない。鯉の掛け軸はいつも掛かっている訳でない。寺院から出たら煩悩が渦巻く世間がある。煩悩は世間の智慧で解決するしかない。仏心で解決できるものではない。この庭は心を休ませてくれ、心を取り戻すためにある。

露地に置かれている蹲踞(つくばい)は蹲踞と注いだ清水にて人の心を表現していた。「心」は無色透明な液体とそれを入れる器からなる。それを日本人は何時知ったのだろうか。

次回はこの庭のデザインと遥拝について書きます。