シュラバナベラゴラ

ジャイナ教の聖地

ヴィンディヤギリという岩山を削って作った614段の階段を、靴を脱ぎ靴下にて登り、頂上にある一枚石を彫って作ったゴンマテーシュワラの巨大石造を目指す。黄色やオレンジ色のサリーを着用し、はだしで参拝する多数のインド人がいた。ここはマイソールの北、カルナータカ州ハーサナ県にあるジャイナ教の聖地、参拝する人々と一緒に階段を登っていると、参拝を終え全裸で駆け下りて来る中高年男性の一団とすれ違った。無所有の教えを裸行にて実行される全裸の男たちは汗臭さかった。その後も裸行を行なう中高年男性、老人男性と幾度もすれ違った。裸行を行う若い男は一人もいない。中高年女性は白いサリーを身につけ箒を持ち不殺生行をされていた。この岩山の外で裸行をしている人を見かけなかったので、参拝用階段入口付近の建屋で服を脱ぎ登頂されたのだろう。岩山を削って作られた階段を登って行くと巨石が転がっている。当聖地が設立される以前、ここは自然崇拝の対象であったことが見て取れる。山頂近くの小さな神殿の中に真っ白なサリーを着用した老女が入り、箒で座る場所の虫を払ってから座り礼拝されていた。階段を登りながら振り返ると広大な風景が広がっていた。聖地頂上には男根丸出しの巨石を彫りこんで造ったゴンマテーシュワラの石像が立ち、それを取り囲む建屋があった。参拝した日が12年ごとの祭りの直後だったので、ゴーマテーシュワラ石像を取り囲むように鉄パイプの足場が組まれ、ゴーマテーシュワラ石像の頭の上から水を注ぐ人々が絶えない情景があった。頭の上から注がれた水は男根の先から集中して落下するので、巨大なしょうべん小僧の像に見え、ほほえましい。男か女か判らない仏教像に比べスッキリしていて良い。ジャイナ教は釈迦が佛教を開いたと同時期に開かれている。ジャイナ教、佛教はヒンドゥー教と根が同じなので、ヒンドゥー教、ジャイナ教、佛教は似たところがある。ガイドが「ジャイナ教はヒンドゥー教以上に来るものを拒み、去る者を追わない」と説明してくれた。血族以外の者がジャイナ教を信仰することをかたくなに拒んでいる。裸行を行うのは子孫をつなぎ一族への責任を果たした男達、中高年になって修行に入ることで、欲ボケ、色ボケをさせない素晴らしいシステムだ。解脱を目指す中高年男性の裸行の姿はどこか共感できる。紀元前から続く裸行の風習を今に伝えることにも感動した。

布教にて教えを広め、若者に修行させる仏教がインドで受け入れられない理由が判った。頂上から南方向、登ってきた階段の方向を望むと、こちらの岩山の裾に四角い沐浴池が見え、その先にこちら側より低いが、庭師が石組したような自然の岩山があり、その岩山付近に寺院が有り、その背後にはデカン高原の緑が広がっていた。高原の緑は地平線までつながっていた。四角い沐浴池を配するだけで自然風景が庭のような美しさとなっていた。インドは農業国で、ヤシ畑など巨大な農地の中に都市が点在していること感じることができた。参拝を終え階段を下りる途中、参拝のため階段を登る男が我々のガイドに大声をかけ、ガイドが持つペットボトルの水を求めた。ガイドが大きなペットボトルを差し出すと、口とペットボトルを離して口に水を流し込み、うまそうに飲んでいた。ペットボトルに水を残し、無造作にペットボトルをガイドに返した。インドで水は皆の共有物だとガイドが説明してくれた。インドはヒンディー語を公用語とするが主に6つの言語があり、英語は第二言語となっていた。多言語、多民族だが争うことなく共存している。ヒンドゥー教、ジャイナ教の「来るものを拒み、去る者を追わない」(血族主義)、「大地から生まれ、大地に帰る」(インドの大地はインド人の共有物)の慣習によるもが大きいと思った。インドに行けば人生観が変わると人が言うが、私は「中高年に修行を求める慣習」に深い感銘を覚えた。