織田信忠を表現した庭
受付をすませ廊下を進むと右側に「清浄の庭」が目に入る。建屋に囲まれた壺状の細長いところに地下エネルギーを感じさせる井戸があり、
井戸傍には枯山水源を表現する立石がある。湧き出た枯水が白砂河となり、
南側の渡り廊下を潜り轟々と外庭へと流れ出すように見せている。白砂面にアセビ、ツツジ、ツバキなどがあり山深く見せる。狭い所に大きな井戸や大きな石を配し、巨大エネルギーが地下から湧き出し、外庭へと流れ出しているように見せることで、方丈と外庭の「侘の庭」「思惟の庭」「真如の庭」を一体化している。
外庭は深く掘り込んでいるが故に、築庭当初は借景庭園だったことが読み取れ、比叡山、東山、吉田山、妙心寺伽藍を借景としていたことが偲ばれる。現在「侘の庭」「思惟の庭」「真如の庭」外周に樹木が茂り、外庭は陰にこもっているが、内庭の「清浄の庭」が明るいので、借景があった頃は外庭も明るかったのだろう。桂春院の庫裏と方丈は西にブッダガヤの大菩薩寺を、東に京都御所紫宸殿—吉田神社斎場所大元宮付近—法然院を遥拝し、その先に京都五山送り火の大文字を見せる向きに建っているので、「侘の庭」「思惟の庭」はブッダガヤの大菩薩寺を背に、紫宸殿、吉田神社、法然院を遥拝し、大文字を借景とする庭だったことが読み取れる。
「侘の庭」の侘(わび)とは、「不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識」「茶の湯などで落ち着いたさびしさ、閑寂な味わい」と教えられた。
「思惟の庭」の思惟(しゆい)とは「対象を分別すること。また、禅定に入る前の心。また、浄土の荘厳を観察すること」と広辞苑で説明されていた。この二つの庭は東山に昇る太陽と月、大文字の送り火、東山を望みながら、主に茶の湯を行い、座禅を組むために有るようだ。
方丈南庭「真如の庭」は妙心寺大方丈の前庭と同じく天と地のみを見せる庭となっており、今は南隣りの大雄院の建屋と大きな植栽が視界を遮っているが、2段の深い掘り込みがあり、ツツジの大刈込とツバキの大刈り込みとが、波が迫ってくるように配されているので借景庭だ。庭前面にマツが無いのに方丈中央の襖絵に松と満ちていく月が画かれていることから、作庭当初は多くの塔頭の屋根、伽藍の屋根、そして妙心寺境内や各塔頭に数多く育っている松の木を見せ、夜は上弦の月、下弦の月、満月と日々形や位置が異なる月、そして天地の間に流れる刻々と変化する雲を見せる庭だったはずだ。作庭当初はツツジの大刈込の先にあるツバキの大刈り込みはもう少し低かったのかも知れない。住職から元々は方丈奥部屋壁に画かれていた壁絵を襖絵にしたと教えて頂いた。
庭を易経に当てはめると「20風地観(観察、省察の道)」が相応しい。人は他人から観察され、心からの評価を受けると満足感を得て成長する。自分自身においても自らを愛し自らを観察し、評価することで成長する。観察の基本は観察対象者や物に対し愛を持ち観察すること。愛情を持たずに観察することは偏見を持っての観察なので、真の観察にならない。自らを愛せない者が真に他人を愛せないように、自らを愛せず劣等感を持てば観察力は低下する。逆に自らを溺愛するような自らに間違った愛を注ぎ込み優越感を持てば真に他人を愛せなくなり観察力が低下する。素直な心の持ち主のみが良質な観察力を保持し続けることができる。
多くの人から素直に観察される人は大人物であり、大人物は観察してくれる者を慌てさせるようなことはせず、観察者の手本となる行為を行い続ける。語り継がれる宗派の教祖、中興の祖と称される方々は愛する弟子や信徒の反応を観察し、自らの行いを矯正し続けることで、見つめ続けてくれる弟子や信徒を教化し続け、教えを確立された。
当院の前身は、織田信忠の次男、織田秀則(1581年~1625)が本能寺の変から16年後の1598年に創建した見性院、方丈から空に流れる風を見せ、掘り込んだ庭とそこに流れる風にて揺らぐ花や葉を見せることで、観察、省察の道を歩んだ織田信忠を表現したものだと推測した。織田信忠は父、信長から良質な教育を受け、成人後は多くの戦果と行政実績を上げ続け、本能寺の変の直前には父から天下の事柄を任せられようとしていた。そこから、自信過剰となることなく、素直に冷静に物事を観察し、謙虚さを持ち、的確な判断力で大胆に問題解決を行う真に国家統一できる人物に育っていたことが読める。
そのような優れた人が1582年(天正10年6月)本能寺の変で簡単に命を失うはずがない。本ブログの織田信長の躍進(1)~(17)で述べたが、織田信長と信忠は森兄弟ら多くの部下を従え満州族が住む地域に移動し、建州女真の中の一つの小さな部族、愛新覚羅を背乗り、信忠がその部族の息子ヌルハチに背乗りし、中国統一事業に乗り出した。その志は息子、ホンタイジが継ぎ清を樹立させた。その偉業を成し遂げた織田信忠を庭に画いたと思う。その根拠として掲げたいのが北京郊外、清東陵の清朝初期時代の多くの皇帝陵と瀋陽のヌルハチの陵墓、福陵の参道が沖縄の首里城を指し示し、首里城を背にして参道を進ませ参拝させるようにし、陵墓に眠る皇帝は琉球を介し日本と交流したことを示している。
①1557年生まれの織田信忠の初陣は1573年(天正元年8月)小谷城の戦いで、父、信長に連れられての観戦。観戦地は小谷城を見渡すことができる虎御前山に作られた城本丸。虎御前山城の本丸を参観した時、多くの人に観戦してもらうために作ったのでは、或いは信忠に観戦させるため、築城したのではないかと思うほどに小谷山が良く見え、固い守りの中にあった。観戦にて織田信忠は観察、省察の道を歩き始めたと考え、本能寺の変までの道のりを追いかけた。
②1574年(天正2年2月)信長に従い岩村城に向かうも到着前に明智城が落ち、岐阜城に戻る。同年(天正2年7月~9月) 織田信長は第三次長島侵攻で7~8万人を動員、3個陸上軍と、1個海上軍を組織し、長島一揆勢を壊滅した。信忠は一個陸上軍の総大将となり、軍団指揮官教育が始まる。その頃に与えられた東美濃、尾張の一部の兵を編成した。後の甲州征伐はこの編成で行われた。軍を風のように動かし、雷のように攻撃や防御させることを体験し、総大将は下位の者と心を通じ合わせることでのみ、下位者に総大将の意思、戦闘目的、作戦を理解してもらえ、命令を受けてもらえ、作戦実行ができることを学んだはずだ。
③1575年(天正3年5月)長篠の戦いに参戦、その戦い終了直後に岩村城攻めの総大将として出陣、夜襲をかけてきた武田軍を撃退し1,100人を討ち取とる戦果を上げ、11月に開城させた。目下の者と心を通わせ、素直に協力し合える関係が無ければ不意打ちを撃退し大戦果を上げられるものではない。軍司令官教育が成功していたと読める。
④1576年(天正4年11月)信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部が譲られ、岐阜城主(領主)となり、(斎藤道三の末子で、本能寺の変では二条御所で戦死した)斎藤利治が重臣となり、統治者教育が始まる。軍の総大将教育の次に行政教育を受けた。行政は軍指揮とは異なり、多くの実力者と誠実に親密に付き合うことを求められ、富を独占せず、皆で富を享受せねばならず、現状維持を第一に行動しなければ民に見放されてしまうことを学んだはずだ。
⑤1577年(天正5年)雑賀攻めでは明智光秀、細川藤孝と共に戦う。私は明智光秀、細川藤孝、織田信長、武田信玄、武田勝頼、大原雪斎は秘密結社の主構成員だと思っているので、織田信忠は二十歳前後で明智光秀、細川藤孝と対等に会話ができる人物に育っていたと思う。同年10月、信貴山城の戦いでは総大将となり、明智光秀を先陣、羽柴秀吉ら4万を指揮し信貴山城を落とした。この戦いから信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになった。つまり信長軍の最高指揮官となった。
⑥1578年(天正6年5月頃)上月城の戦いで苦戦中の羽柴秀吉を援護するため信長は信忠を総大将とし明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、細川藤孝と2万を率いさせ出陣させた。援護軍は二手に分かれ上月城攻撃の明智光秀軍と、三木城付近を攻撃する信忠軍に分かれた。羽柴秀吉は信忠の指揮に入った。結局、二方面で戦っていた計7.2万人の織田軍は上月城を見捨て、三木城と付近の城攻略に専念した。頑強に防御する相手に戦果を上げているので、誠意を持ち大将達と作戦を練り、戦っていたことが読める。信長軍総大将としての光を放っていたことだろう。
⑦1578年(天正6年10月)月岡野の戦いで大戦果を上げていた斎藤利治が更なる戦果を上げるよう信忠は援軍総大将に任命され出陣するも雪のため撤収した。雪で進軍困難と見れば素直に軍を撤退させたことから、信長軍の最高指揮官としての貫禄が見える。
⑧1579年(天正9年)荒木村重の謀反鎮圧に出陣、3千で加茂砦に陣を張っていたところ、荒木村重が信忠を狙い5百で夜襲、火攻めをかけてきた。砦が燃やされ馬や兵糧を奪われたが信忠は無事だった。思いがけない攻撃で一命を失う所であったが、何も無かったように振舞ったはずだ。
⑨1580年(天正8年)佐久間信盛と安藤守就の追放により、両名が美濃、尾張で支配していた地域が信忠に移譲され領域が広がった。まだ23歳前後なので行政を十分に行える実力が備わっていたかどうか不明だが、父、信長は嫡男、信忠を領主として成長させるため領域を拡大したのだろう。
⑩1582年(天正10年2月)信忠は織田軍5万の総大将として武田領に侵攻、天正10年3月2日、高遠城を攻め、搦手口では陣頭に立ち柵を破り塀に登り指揮する勇猛ぶりを発揮した。高遠城を守る仁科盛信(武田信玄5男)は信忠と同い年、3千を率い、武田氏滅亡にふさわしく戦い自刃した。信忠は一刻も早く高遠城を落とし、徳川家康よりも先に甲府に入る必要があったので、わずか1日で落城させ進軍を続けた。次々と調略が成功した信忠軍の進撃は早かった。武田勝頼は体勢を立て直すことが出来ず新府城を焼き捨て逃亡、天目山の戦いで勝頼・信勝父子が自害、武田氏は滅亡した。余談になるが勝頼・信勝父子は自害したと伝わるが、歴史の流れを見れば、影武者に自害を演じさせたように見える。武田領における快進撃は信忠軍だけの奮闘で成ったものではなく、織田信長、明智光秀、細川藤孝、武田勝頼ら秘密結社構成員の事前手配があったからだと思う。高遠城の戦いは武田氏滅亡を皆に判らせるための劇場型の戦いだったように見える。快進撃を続けなければならないとの使命を持った信忠は快進撃を続けても満足感を得られなかったように思う。織田信長、明智光秀、細川藤孝、武田勝頼らに乗せられた戦いだが、高遠城を陥落させ、短時間で甲府に到着するも、奢ることなく自己制御できたことは信長軍総大将としてふさわしい振る舞いだったと思う。
⑪天正10年3月21日、信長は全く戦うことなく諏訪に入った。信長は信忠の戦功を賞したが領地を分け与えなかった。信忠は父に不満をぶつけるも自らの戦功を誇らず、自らの実力を誇らず、従順に父に従った。このように信忠の実績と対応を見ていると、日本の歴史上、軍事、行政、人間教育の効果を上げた最高人物ではないだろうかと思ってしまう。
⑫天正10年5月21日、信忠は京都妙覚寺に入った。信長が安土城を離れ本能寺に入ったのは5月29日なので、その間、信長の京都警備手配、逃避を助けてくれる工作員との打ち合わせ、逃避路の設定とその確認を行っていたと想像する。信長は本能寺に入った翌日、6月1日に本能寺で茶会を開き、そのあと酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪し、信長・信忠親子は久しぶりに交流したと伝わる。上述した多くの実績を持つ信忠が本能寺の変において父の面影を追い二条城(二条御所)で戦死を選ぶようなスケールの小さい人物であるはずない。部下の明智光秀とは長年にわたり心の交流を行い共に戦い、更に信忠の指導者であったことは明瞭だ。信長とて同じで、歴史の流れを見れば明智光秀とは桶狭間の戦いの4年前に起きた斎藤義龍の明智城攻めの時、すでに秘密結社の構成員同士として連絡を取り合っていたように見える。26年以上、同士として付き合っていた関係にあったと思う。1576年の天王寺の戦いでは、命を失う直前まで追い込まれていた明智光秀を助けるために織田信長は僅か3,000名を指揮し、天王寺砦を取り囲む1万5千の敵兵を蹴散らして天王寺砦に入城し、砦内の兵と合流、意表を突き、すぐ砦から出陣し、敵兵に鉄砲を撃つ時間さえ与えない猛攻撃で敵陣を総崩れとし、現在の大阪城、かつての石山本願寺の木戸口まで追撃した。それ以降、石山本願寺は一切の出撃を行わなくなるほどの大打撃を与えた。天王寺の戦いだけを見ても信長と光秀は深く心を通わせていたことが判るし、二人は深い親戚関係にもあった。二人は遠くに離れていても相手が何を考えているか判る関係にあったことは明瞭だ。戦国時代を終わらせ、平和な徳川幕府を開き、東アジアに平和をもたらす目的実現のために、織田信長、信忠、明智光秀は共に地下に潜り、誰かに背乗りを行って、引き続き活動を続ける密約を交わしたと考え、信忠はヌルハチに、光秀は千利休に背乗りしたと推測した。その後の徳川幕府成立、清朝成立の歴史を見れば、秘密結社の計画通り両政権が樹立されたと読めてしまう。三名は密約を天命と定め、密約通り本能寺の変を実行したと読める。
⑬京都のあちこちを観光すれば判ることだが、織田信長が明智光秀に大軍で取り囲まれるまで何も行動しなかったことなどありえない。6月1日夕方、亀山を出発した大軍が嵐山の西側を抜け京都に移動すれば、6月1日夜から6月2日未明にかけ嵐山上空がタイマツの火で赤く染まっていたことは明白。本能寺は京都東側の高台にあり、城のように濠が巡らせてあった。本能寺の西側に建屋は一切無く、良く水害が起きる農地や低湿地帯で、最大高低差は6mもある。嵐山の南側から本能寺までは直線で7㎞以上、桂川を徒歩で越えてから本能寺に至るまで直線で4㎞以上あり、嵐山の南から出現した大軍の先頭が見えてから本能寺に至るまで本能寺から目視観察し続けることができた。当時の山道は一人が通り抜けられる程度の幅しかなかったので、もし史実として伝わる1万三千名の兵が歩けば、最初の兵が本能寺に到着した時、最後の兵がやっと亀山城を出発するようなことになる。桂川を越える前に整列し、桂川を渡った後に整列していたことだろうから、大軍が嵐山の南から出現し桂川を渡り、整列し、後続部隊が到着するのを待ち、本能寺を取り囲むまで、かなりの時間を費やしたことも明白だ。これらの様子を本能寺から観察し続けていたことが容易に想像でき、もし本能寺に信長が、妙覚寺に信忠がいて、京都が騒然となっている中で史実のように何もせず、攻められてから行動を起こしたなどありえない。
これらのことから私は本能寺の変が起きた前夜に、信長、長利(信長弟)、信忠、勝長(信忠弟)、森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸、坂井越中守たちは京を脱出、本能寺の変が起きた時点で、すでに逃避を終え若狭湾から出航していたか、或いは朽木の興聖寺で休息を終え若狭湾に向かっていたと推測した。本能寺・二条御所で討ち死にした忠臣たちは、信長、信忠らがいるように見せかけ明智光秀と戦い忠義を果たしたのだろう。当時は心酔する上司から戦死するまで戦えと命じられたら戦う時代で、殉死があたりまえの時代だった。明智光秀が本能寺を全焼させたのは秘密の出口の存在を隠蔽するためだったと想像してしまう。
⑭本能寺の変において周山城は織田信長、信忠一行の隠密逃避行を助けるために活用されたと推測した。明智光秀は信長、信忠一行が通る街道を封鎖し、封鎖された街道を利用しようとする人を他の街道に誘導する作戦拠点(司令部)としたと推測した。周山城から各街道の分岐点、抜け道入口、関所などに兵を送り警備と誘導を行ない、第三者に見られることなく信長、信忠一行を逃避させたと考えた。一行は馬が走らせやすい(朽木経由の)若狭街道を抜け小浜港から乗船したはずで、鞍馬街道と西近江路は若狭街道封鎖による迂回路にされたと思う。小浜港から出港した船は朝鮮の羅津港あたりに向かったのではないかと思う。
⑮織田信忠は1557年生まれ、ヌルハチが戦傷キズを受け亡くなったのが1626年、同一人物とすれば満69~70歳、妥当な没年だ。極めて良質な教育を受けて育った信忠、それに対し本能寺の変以前のヌルハチには歴史記録は無い。蜂起してから連戦連勝を続けるには信忠ほどの実力が無ければできるはずがなく、蜂起した以降のヌルハチの歩んだ道は信忠の歩んだ観察・省察の道と全く同じだ。満州族の15%のDNAが日本人と略同じことも理由になる。本ブログの「興聖寺(高島市)の遥拝先」などで紹介したが、日本のいくつかの庭には上述内容を連想させる石がある。
織田信忠のように恵まれた環境の中で育ち、素直な心を持ち、観察・省察の道を歩いた人は良い教育を受け容れることができ、早く成長できる。そして事業に大成功し、大きな利を生み出し、利を皆と共有する。利をかすめ取る輩に注意さえすれば、更なる大成功に向けて進める。桂春院の庭は爽やかな織田信忠を表現し、爽やかに生きることの素晴らしさを見せていると思った。