妙心寺大心院

細川藤孝を表現する大心院

小さな山門を潜ると庫裏玄関へと伸びる石畳があり、その傍には砂利(白砂)が敷かれ、低い築山と植栽あり、築地塀の上には南隣りの玉鳳院の建屋が借景となっている。本堂の玄関を隠すような丸く刈り込んだ大きな松があり、その背後にも築地塀に囲まれた本堂前庭に育つ丸く刈り込んだ大きな松があるので、当院の本堂や玄関より、玉鳳院を引き立てるように作庭されている。玉鳳院の開山堂傍には武田信玄の供養塔、武田勝頼・信勝・信豊の首塚があり、その右隣りには織田信長、信忠親子の供養塔が立てられているので、玉鳳院の開山堂や、武田信玄、勝頼、信勝、信豊、織田信長、信忠に敬意を表しているのだろう。当院のパンフレットには「当院は文明十一年(一四七九)足利幕府の官領・細川政元が景堂和尚に帰依して上京区大心院町に建立した寺です。天正年中に細川幽斎(藤孝)の熱意と尽力により妙心寺に移転、中興されました。この中興により当院の妙心寺塔頭としての発展の基礎が確立しました。続いて子の細川三斎(忠興)も当院の外護に努められました。」と説明されているので、当院を、玉鳳院を守る位置に引っ越しさせた細川藤孝と武田信玄、勝頼親子及び織田信長、信忠親子との深い関係を感じる。山門は西側に有るので、山門を潜って見えるこの玄関前の風景は建屋が太陽を反射しており恐れ多い風景にすら感じ、そして秘めたる歴史を連想させる。玄関前の庭は江戸時代の庭を基に、近年、砂利(白砂)を敷き、低い築山を設けシャクナゲなどを植え、装飾的に仕上げたことが見て取れるが、もともとは地面を見せ、いくつかの植栽とで地面の上を撫でる風を感じさせ、玉鳳院建屋の上を流れ進む流れの速い雲とを対比させ、小さな風と大きな風を感じさせる庭だったと思った。本堂の前庭には本堂と平行に走る石畳と洋風の花壇があり、庭周囲に苔面、本堂側に砂利(白砂)面を配し、玉鳳院の建屋を借景としている。改装前は地面と苔面、いくつかの植栽を見せ、玄関前と同じく小さな風と大きな風を感じさせる庭だったのだろう。本堂の東庭は意匠を凝らした庭で苔面と白砂面にて美しく仕上げられている。宿坊東の庭にも白砂が敷かれている。その背後には厚い竹林がある。近代庭園は白砂を多用し、天に逆らわない意を見せ、昭和天皇のご意向に逆らいませんということを示していたのだろうが、この技法は寺院の歴史に蓋をしていると感じてしまう。本堂北庭は作庭当初の江戸庭園にそれほど手を入れなかったように見える。丸く刈り込んだ大きな松、ドウダンツツジの丸刈りが目を引き、小さな風を感じさせ落ち着く。何と言っても大心院の持ち味は大風が吹いたら、本堂、宿坊の東側にある竹林が揺れ動き、風が奏でる竹林の音が院内に響くこと。風が強くなればなるほどに竹林が左右に大きく揺れ、竹林の奏でる音色がより大きくなり、心に響く。細川藤孝、忠興親子が生きた戦国末期を感じる。すでに昭和は遠くなったのだから、もとの庭に戻してほしいと心の中でつぶやいてしまった。当院全体で風を感じさせているので、当院は易経「57巽為風(風の如くにしたがう)」を表現し、庭に細川藤孝を画いたと読んだ。本記事では細川藤孝(1534年~1610年)の人生を追いかけ、風の如くにしたがう高貴な方の生き方を易経から学ぶことにした。①風の如くにしたがう貴人は、人の話を良く聞くので、他人に従属し、自らを失ってしまうように見えるが、そのようにはならない。悪いたくらみにも耳を傾け、悪に染まってしまいそうに見えても、悪にも染まらない。従順に相手の話を聞き、その通りに動いても、世間は自然の一部であり、自然淘汰の原理が働いているので、他人の話に乗せられても、世間が受け入れることしか通らない。このような風の如くに生きる人が細川藤孝のような高貴な家で育ち、教養溢れ、権威と名声を持った人物であった場合、細川藤孝を利用しようとした人の要求が正しかった場合のみ、要求が世間に通るが、間違った要求だったら、誰もが目にする大失敗を引き起こし、要求者の評価を大きく下げてしまい、世間から大きなしっぺ返しを食らう。人の話を良く聞く人の本心は見えないが故に、話しかける人は喋りすぎてしまう。聞く耳を持つ人と会話を行えばものごとの問題点が浮かび上がり、解決方法が熟成される。松下幸之助氏が聞き上手だったのは、これらの法則を会得していたからだろう。細川晴広の養子となった藤孝の父は室町幕府第12代、足利義晴将軍という説がある。そのためか1546年、室町幕府第13代、足利義輝将軍の偏諱を受け、与一郎藤孝を名乗り幕臣となる。1552年に従五位下に叙任され貴族になる。足利氏は清和天皇につながる河内源氏の血流なので、日本では生まれついて尊重される血流ゆえに、18歳ごろには封建社会のトップ層の一員になれたと読んだ。②1565年、三好三人衆、松永久通らの軍勢が二条御所を襲撃し、足利義輝将軍を討った。その戦いの中、細川藤孝は御所から脱出した。約2か月後、興福寺に幽閉されていた義輝の弟を、義輝の遺臣らと共に救出、14代、足利義昭将軍擁立への奔走を始めた。しかし、将軍は多くの戦国大名の長であり、実力ある戦国大名が支持しなければ擁立できないので、奔走は続いた。強く恐ろしい戦国大名に会い、要望を提示するには、戦国大名にさからわないことが肝要で、すなおに戦国大名の話を伺い、おとなしく、柔順な態度を示す必要がある。そのような身のこなしが自然にできた人だったと読める。③そこに出現したのが明智光秀、藤孝は明智光秀を通じ、織田信長に助けを求めた。1568年、織田信長が約5万の軍を従え、義昭を奉じ京都に入る。明智光秀、細川藤孝はこれに従った。信長は三好三人衆を畿内から一掃するため、先ずは勝竜寺城を全軍で攻め落とし、城を藤孝に与えた。1581年まで藤孝の居城だった。1569年初、織田信長側の京都防備が手薄となった時を狙い、三好三人衆らが足利義昭将軍の居所・本圀寺を襲撃する本圀寺の変が起きた。細川藤孝、明智光秀は他の援軍と共に戦いこれを撃退した。織田信長から与えられた役割を果たせるように部下を育成し、明智光秀ら仲間と親睦を深めていたことが読めるし、信長の足利義昭将軍を守れという命令が合理的で正しかったからこそ、防御に成功したと読める。④足利義昭は織田信長から脱却し、真の将軍になろうと工作したので、両者の対立が表面化した。1573年、信長は軍勢を率い上洛し義昭に圧力を加えた。義昭は信長に恭順の姿勢を示したが、義昭が信長に逆心を抱く節があることを藤孝は信長に伝えた。信長は恐ろしい人なので、命がけの上奏だったと思う。命がけの上奏だったからこそ信長は義昭を御所から追放、藤孝に、桂川の西の支配権を与えた。命がけの上奏が通った藤孝は信長に誠心誠意仕え、意思疎通を行い、信長の命令を素直に実行するようになったと思う。そして素直な性格だったと読めるので、信長に信用されたことだろう。もしも義昭が姑息に全国の有力大名に支持を求めるようなことをせず、藤孝に学び、風のように信長にしたがい、信長の要望どおりに物事を進めていたら歴史は変わっていたことだろう。義明には権威があり高貴な身分なので、信長の要求を先ずフィルターにかけ、正しいと思うことのみを抽出し、内容を調整した上で公布しておれば、信長は義明を上司として立てざるを得なかったはずだ。風のようにしたがう生き方は力を失った高貴な人が取るべき処世法なのだろう。⑤翌1573年、藤孝は信長に従い槇島城の戦いに参戦。義昭は敗れ、京都から追放され、室町幕府は滅亡した。直後、第二次淀古城の戦いで戦功を挙げた。文化人としての謙遜的な行動だけではなく、武人として有能で、且つ信長の信用を獲得していたので、それからは織田信長軍の武将として高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐と転戦を続けた。黒井城の戦いでは明智光秀山陰方面軍総大将の与力として活躍した。信長軍は天の意思に従い戦っていた面があり、常に正しかったので、藤孝は信長の命に素直に風の如くに従い連戦した。⑥1577年、雑賀攻めでは織田信長の息子達、織田信忠、北畠信雄、神戸信孝、そして信長の弟、織田信包が大将となった軍勢に加わり、明智光秀と共に戦う。同年、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を、筒井順慶、明智光秀と共に攻め、次いで織田信忠総大将編成軍に加わり明智光秀、羽柴秀吉と共に信貴山城を落とした。織田信忠を総大将として育てる役割を明智光秀と共に与えられていたはずで、柔和に明知を持って指導し、信長の期待に応えたと読める。⑦1578年、信長の命令で藤孝の嫡男、忠興と光秀の娘、玉子(ガラシャ)が結婚した。1580年、光秀の与力として、丹後国に進攻、一色氏に反撃され失敗。光秀の加勢にて丹後南部を平定し、信長から丹後を一色義定と藤孝で分割統治するよう命ぜられた。甲州征伐には一色満信と共に出陣した。1580年、信長の命により、光秀の指図を受けて海軍活動ができ、居城とする宮津城を新設することになった。信長の驚くような命令が絶えなく発せられ、それに従う状況が長く続くが、信長と光秀から与えられた分を守り、冷静に対処していたと読める。⑧1582年、本能寺の変;前回の記事「妙心寺桂春院」で、本能寺の変は織田信長、信忠親子と両名の弟、及び森兄弟ら多くの部下を一旦地下に潜らせ、満州族が住む地域に移動させ、建州女真の中の一つの小さな部族、愛新覚羅に背乗させ、信忠が部族の息子ヌルハチに背乗りして、足利幕府と関係深く、恐怖政治を行っていた明を倒し、清を樹立し、東アジアに平和をもたらすためだったと書いた。このような壮大な計画は武田信玄を頭とする秘密結社でも無ければ実現できなかったと思う。現時点では武田信玄を頭とする河内源氏系秘密結社の存在根拠は掴んでいないが、源氏と言えば河内源氏と言われるほどに江戸時代には河内源氏が栄えた。歴史事件をつなぐと背後に河内源氏がいたと思え、武田信玄、武田勝頼は河内源氏の血筋だし、明智光秀は河内源氏の血筋に見える。先に述べたが細川藤孝の父は河内源氏の足利義晴将軍と伝わる。織田信長、信忠親子は優秀で、国家統一事業を順調に進めたが、河内源氏ではないので地下に潜っていた河内源氏のドン、武田信玄が徳川幕府成立後の信長、信忠親子の居場所を考慮し、新天地を用意し、本能寺の変を企て、満州族の地に送り込んだというのが真相ではないだろうか。光秀はその企てを事前に藤孝に説明し、協力させたと思う。細川藤孝、忠興親子は良家で育ち素直で従順だったのに、極めて短気だったのは秘密を周囲の者に悟られるのを恐れ警戒し、本能的に短気な性格が育成されたのではないだろうか。そのような背景があったので本能寺の変直後、藤孝は躊躇なく、光秀から羽柴秀吉と戦う要請を断り、剃髪して田辺城に隠居、忠興に家督を譲ったのだと思う。本能寺の変からわずか11日後、山崎の戦いが起き光秀軍はあっけなく破れた。さて、本能寺の変が起きたことを秀吉が知ったのは変の翌日もしくは翌々日、秀吉軍はすぐ毛利軍と講和を結び備中高松城の戦いを終結させ、約1週間の短時間で2万以上の重装備の兵を徒歩にて230kmを移動させたことになっているが、信長は秀吉にそれだけの財を持たしていたのか、移動拠点確保の交渉力があったのか、物理的にそのような移動が可能だったのか疑問がある。移動する2万人以上の軍兵のため、移動先拠点に、あらかじめ2万人以上の食事、宿泊先を用意しておかなければならず、移動速度が速いので武器は海上輸送せざるを得ないように見受けられ、或いは多くの兵を海上移動させた可能性もある。兵と武器を海上移送するためには事前に大量の船を用意しておかなければならないし、更に大量の武器弾薬、物資を山崎の戦い付近に予め在庫しておかなければならない。信長が秀吉にそのような権限を与えていたと思えない。そのような手配ができる立場にいたのは光秀のみだ。230kmを走破し、秀吉が陣を張った時に、千利休が現れ秀吉に茶をふるまったと伝わる。千利休は光秀と甥の二人で演じていたように見えるので、千利休が現れた時点で、すでに明智軍内に明智光秀はいなかったはず。千利休が織田信長に雇われていた期間中、茶会は制限されており武将との交流があった記録は表に出ていない。にもかかわらず千利休と細川藤孝、忠興親子は旧知のように極めて親密だった。羽柴秀吉(豊臣秀吉)は山崎の戦いに勝ち、織田軍内の反対勢力を一掃し、ついには日本統一事業を完成させ、2度の朝鮮出兵を行ったが、これらは千利休が立案したように見えるので、秀吉は千利休に操られていただけのように思える。以上から千利休は明智光秀に背乗りされたと考えるのが自然だ。藤孝は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。藤孝が息子の忠興と参戦したのは1585年の紀州攻めのみ。1586年に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。藤孝は秀吉から優遇されたが、家柄がはるかに下で、織田家臣の中でも序列が下だったはずの3歳年下の秀吉に仕え不快な思いをしたことだろう。健康を害することなく従順に秀吉に仕えられていたのも千利休との親交のおかげだろう。尚、息子の忠興は1584年の小牧・長久手の戦い、1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐に従軍した。1588年に豊臣姓を下賜されるなど秀吉に評価されている。⑨1591年、千利休は秀吉の逆鱗に触れ、自害させられた。しかし、ほんとうに自害したようには見えない。日本統一事業が完了し、千利休の役割が終わった時期なのでタイミングが良すぎる。翌年~翌々年、文禄の役が起きたので、明智光秀こと千利休は再び地下に潜り、織田信忠ことヌルハチの女真族統一を促進させるため、朝鮮侵攻の準備に取り掛かったと私は思う。渡海し朝鮮半島、女真族地区にまで足を伸ばし、実情調査したはずで、ヌルハチや旧、織田家家臣と面談していた可能性が有ると思う。満州族地区には織田信長と思える人物や陵墓が見当たらないので、すでに信長は更なる任務を持ち欧州に移動していた可能性も有る。と言うのも1662年、すでに明が滅んでいたのに、鄭成功が台湾のオランダの植民者たちを追放し、台湾島を南明の拠点にできたのも、欧州に清の情報活動の工作拠点が有ったからではないだろうか。尚、千利休が消えた十数年後、利休聚楽屋敷の跡地は、忠興とガラシャの息子、長岡休無が茶室と能舞屋敷として使った。1952年、藤孝の息子、忠興はプサンの西80㎞の晋州城攻防戦に参戦したが、第一次晋州城攻防戦は小手調べのような攻撃のみで打撃を与えたのに撤収、1952年の第二次晋州城攻防戦は輸送担当だった。藤孝は1592年の梅北一揆収束後、薩摩国に派遣され、徹底した検地を行った。その功により、1595年に大隅国にて3000石を加増された。親子共に優遇されていたが、1595年の豊臣秀次事件では、忠興が秀次より借金していたので秀吉に嫌疑をかけられたが協力者を通じ徳川家康らから借金し返済して難を逃れた。千利休が消えて以降、藤孝、忠興親子の有力支援者は徳川家康だった。風の如くにしたがう貴人には協力者、支援者が必要不可欠だ。⑩1598年、秀吉が死去すると藤孝、忠興親子は石田三成らと対立し、徳川家康に親しく近づいた。1599年には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成を排斥した。これら一連の動きは徳川幕府成立のための協力活動であり、その結果、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、18万石の大名となった。「徳川家康ゆかりの寺社(6) 大樹寺(岡崎)」の記事に同じようなことを書いたが、鎌倉幕府を開いた源頼朝、足利幕府を開いた足利尊氏は共に河内源氏、鎌倉幕府、足利幕府の失敗を省み、恒久的な河内源氏の世を実現するため、河内源氏の武田信玄が安祥松平家(松平宗家)を背乗り、自らの幼い息子を当主とし、河内源氏の今川家に送り大原雪斎の教育を受けさせ、徳川家康へと育てた。この活動の最初の協力者は大原雪斎、織田信長、明智光秀で、後に細川藤孝は明智光秀と親交を深め秘密結社のメンバーに加わったと読んだ。その根拠は細川藤孝が養子に入った細川家は河内源氏、足利氏の血流流れ、藤孝自身も足利義晴将軍の子であると伝わり、皇族、公家に太い人脈を持っていたので、秘密結社として血の結束のため、皇族、公家との交流のために必要だったのだと思う。藤孝は変わらず河内源氏による新しい時代、つまり徳川時代を作り上げるための努力を続けていた。戦国時代を終わらせ、徳川幕府を完成させた時代の司会者は明智光秀-千利休-天海だが、天海が突如、歴史に出現するのが1599年、秀吉が亡くなり、慶長の役が終わり、日本軍が朝鮮半島から撤退した直後、タイミングが良すぎる。天海も千利休と同じく明智光秀と甥の二人が演じていたと考えるのが妥当だと思う。天海が長寿だったのは光秀の誕生日と甥の死亡日だからだろう。天海が最初に徳川家康に謁見した時、家康は初対面に見えないほど喜び、打ち解けていた逸話があり、春日局が天海に合った時、初対面なのに「おひさしぶり」と言った逸話がある。⑪藤孝は足利幕府幕臣前から歌道を志し、足利将軍のお供をしながら夜中に勉学に励み、事あるごとに和歌を詠んでいたと伝わり、公家・武家だけでなく多数の門人がいた。そして「古今和歌集」の読み方・解釈を伝授する三条西家に代々伝わる秘事「古今伝授」を三条公国が幼かったため、弟子の一人、藤孝が中継ぎとして継承。1600年には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁親王へも教授を始めた。智仁親王から天皇に伝えられ、御所でも伝授されるようになっていた。しばらくして徳川陣営と石田陣営の動きが慌ただしくなり、息子、忠興は徳川家康に従って会津征伐に参戦したため、藤孝が丹後田辺城を500に満たない手勢で守ることとなる。1.5万人の大軍に包囲され、2ヶ月にわたり籠城したため智仁親王への講義が中断。藤孝が討たれると日本の歌道が途絶えることになるとして、後陽成天皇の勅命によって関ケ原の戦いの2日前に講和が結ばれた。天皇の勅命にて講和したことで、徳川家康に統治権を代行させることが正当化された。丹後田辺城籠城戦はこのような結果となるように徳川家康が手配していた戦に見える。大坂屋敷にあっては忠興が会津征伐参加中に夫人ガラシャが石田陣営に包囲され、ガラシャは屋敷に火を放って自害した。ガラシャは熱心なキリシタンで徳川時代になれば抹消されるべき人物であった。ガラシャを追い詰めた手口は明智光秀、千利休の手口に似ているので、天海の手配だと思う。武田信玄、織田信長、明智光秀に共通するのは政治目標到達のために障害となる者は身内であっても容赦なく排除する点だ。この話には続きがあり、藤孝の正室で忠興の母は、ガラシャが自害したことに影響を受け、洗礼を受け細川マリアと呼ばれるようになった。秘密結社は非人間的組織なので、それにかかわる人は、身近な人から思わぬ反発を受けてしまうのだろう。⑫忠興は関ヶ原の戦いにおいて、前線で石田三成の軍と戦い、戦後に豊前国小倉藩を与えられた。もとの丹後田辺18万石とあわせ39.9万石となった。藤孝、忠興親子はそれまでの努力が認められ、徳川幕府に重用されるようになった。その恩に応えるべく、忠興は1602年から約7年かけ天守閣を築城し城下町を整備した。1602年、小倉城に藩庁を移した。藤孝は京都吉田で悠々自適な晩年を送り、1610年、京都三条車屋町の自邸で亡くなった。 藤孝が智仁親王に古今伝授を行った「古今伝授の間」は水前寺成趣園内に移転されている。1612年、宮本武蔵と佐々木小次郎との決闘が領内の巌流島で行われた。小倉藩剣術師範だった小次郎の妻はキリシタンだったので、藩内のキリシタン一掃のために宮本武蔵と決闘させた説がある。以上を振り返ると、細川藤孝は日本人に尊重される河内源氏の血流で、幼い頃から皇族、公家と親交があり、和歌の権威者だったので、織田信長、明智光秀に政治利用されたが、信長、光秀から藤孝への要求が正しく、本人が貫いた風の如くにしたがう生き方どおり、要求を素直に実行し、両名の政治目標到達に貢献した。明智光秀、千利休、徳川家康ら支援者と深く親交したことで行動にブレがなかった。嫡男の忠興が部下として従順に従い成果を上げ続けてくれたことで、徳川幕府の信任を受け、重用され続け、1632年には忠興の三男、忠利が54万石の熊本藩主に移封された。54万石あれば、九州で反乱が起きても単独で鎮圧できる軍事力を備えられる。高貴な藤孝、忠興親子が一見、卑屈な行為者に見えるが、卑屈さは全く無く、接してきた人に影響を与える風の如くにしたがう生き方をした結果、子孫は豊かな悦びの道を歩み続けられている。そして風の如くにしたがう生き方には素直さ、誠実さ、高貴さ、強い協力者、忠誠心ある部下が必須だと学んだ。