「妙心寺桂春院」の記事で、妙心寺と関係深い明智光秀、細川藤孝、織田信長、武田信玄、武田勝頼、大原雪斎は秘密結社の主構成員だと思うと書き、桂春院の庭に織田信忠が画かれていると述べた。妙心寺塔頭の歴史には秘密結社の存在、明智光秀=千利休=天海、春日局は明智光秀の娘であるなどの根拠を提示できると思い記事にした。
Wikipediaの天海の記事には「徳川幕府が林鵞峰に命じて『続本朝通鑑』を編纂する際に上杉家から献上された報告書『上杉将士書上』によると、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したという。この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たが後に信玄に聞くと「あれは影武者だ」と答えられたという。ただし、この史料はこの時天海が45歳だったことになっていることや実在が疑われている宇佐美定行が上杉二十五将に数えられているなど不自然な点も多い。」と書かれている。天海=明智光秀として、少なくとも明智光秀と武田信玄が親交していた根拠になるはずだ。
桂春院の西隣り、蟠桃院は1601年、前田玄以が開基、牧村利貞の弟で妙心寺住持、一宙東黙が開祖。さて1582年、本能寺の変に際し前田玄以(1539年~1602年)は、織田信忠の命で二条新御所から逃れ、美濃国岐阜城から尾張国清洲城に信忠嫡男の三法師を移した。その功績によるのか1595年、明智光秀と縁深い丹波亀山城主となり5万石を拝した。
1600年、玄以の息子、茂勝は藤孝が500名に満たない数で守る丹後国田辺城を1.5万人で取り囲んだが、藤孝が勅命を受け開城するまでの約2カ月間、空砲を撃つだけで攻撃しなかった。開城の使者を務め田辺城を占領した後、藤孝を丹波亀山城に招いた。藤孝と茂勝は戦い合った仲なので、お互いを良く知る間柄になったことだろう。1608年、茂勝は徳川幕府のお咎めを受け改易になり、ひっそり暮らす身となった。
「妙心寺大心院」の記事で、大心院は全体で細川藤孝、忠興親子の風の如くにしたがう生き方を表現し、両名は明智光秀、織田信長、千利休、徳川家康に支援してもらいつつ、彼らの要求を実現させたと書いた。
「妙心寺壽聖院」の記事で、庭には石田三成夫妻、父、兄とその息子は関ケ原の戦いに起因し自害、石田家は大損したが、損益は表裏一体、
石田一族の大損によって天下統一が実現し、日本に平和な時代が訪れ、日本国民皆が大益を得ることができたことを画いていると書いた。
徳川幕府は石田三成に報いるためか、関ケ原の戦い直後、当寺に入り僧となった三成の長男、重家の男系子孫をつなげ、現在もつながっている。三成の次男、重成は姓を杉山と替え、子孫は弘前藩の家老として存続し、現代につながっている。三成の三人の娘は厚遇され、恵まれた結婚、子孫繁栄を果たした。
妙心寺は徳川幕府を作り上げた秘密結社と深い結びつきがあったように思う。玉鳳院の開山堂傍には武田信玄の供養塔と、武田勝頼・信勝・信豊の首塚があり、その右隣りには織田信長、信忠親子の供養塔が立てられている。これら石碑は気品があり美しい。
妙心寺の一番聖なる所に供養されているので、妙心寺と武田信玄、勝頼、織田信長、信忠はよほど深い関係にあったと読める。供養塔からそれほど離れていない場所には、豊臣秀吉が亡くなった後、廃寺となった祥雲寺にあった鶴松霊廟が移設され祀られている。
妙心寺HPの明智風呂の説明には「明智光秀の叔父である塔頭・大嶺院の密宗和尚が、光秀の菩提を弔うために創建されたといわれ、通称「明智風呂」と呼ばれています。かつて風呂が沸いた合図の鐘が、春日局によって建立されていましたが、火災によって焼失してしまいました。近年、京都の東山仁王門の信行寺にあった鐘楼を譲り受け、移築したのが現存のもので、これも春日局が塔頭の麟祥院に寄進したものだったといわれます。」と説明されている。本能寺の変から山崎の戦いの間に、明智光秀は妙心寺に莫大な寄付を行ったのだろう。故に明智風呂が建造されたのだろうが、莫大な寄付の大半は秘密結社の活動費に回されたのではと推測したくなる。
Wikipediaの南国梵桂の記事には「妙心寺末寺の本徳寺を開基したと伝わる。」「南国梵桂は明智光慶だとする説」「明智光秀の長男、光慶は、生き延び、かつてあった京都妙心寺塔頭、瑞松院に住み「玄琳」を名乗り、そして住職になった説」があると書かれている。江戸初期に瑞松院は光秀の妻・煕子の実家である明智氏の一族、旗本妻木氏が檀那となった。また、玄琳の師は大心院主・三英瑞省で、光秀の三女・玉子(ガラシャ)の夫・細川忠興が大心院の旦那となっていた。」とも説明されていたので、南国梵桂が明智光慶だとすれば、細川藤孝、忠興親子は明智光慶を支援していたことになる。玄琳は、「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成したとも伝わっている。これとは別に「南国梵桂=嫡男の明智光慶、玄琳=三男の晴光」と書くブログもある。
春日局が開基した麟祥院には春日局の墓がある。春日局(1579年~1643年)を追求した当ブログの「黒井城・興禅寺(丹波市)」の記事で書いたが、興禅寺の庭は春日局が家光の乳母となり飛躍する姿を連想させるような、池の中に潜む龍が雷に乗じて風に乗り天に舞い上がる情景が画かれている。その庭の石橋が指し示す先には鳥取東照宮があるので、龍となった春日局が飛んで行く先は徳川家康という意味に取れる。黒井城は1577年、明智光秀が細川藤孝、忠興親子の援軍を得て落城させた。そして部下の斎藤利三に1万石を与え城主とした。春日局(福)はこの城の屋敷、興禅寺で斎藤利三の子として生まれたことになっているが、福の父親は明智光秀だとする説があるので、明智光秀がこっそりと生んだ娘、福を斎藤利三に利三の子として育てるよう要請したと読める。光秀は福が生まれた段階で将来、徳川将軍に嫁がせる計画を持っていたのではないだろうか、京都で公家教育を受けさせたのも、稲葉正成に嫁がせたのも計画に沿ったものではなかったのだろうか。当ブログの「明智神社 明智光秀の躍進(3)」で書いたが、かつて明智光秀が住んでいた地区では虐殺をしないように手配した美談の陰で、数万人を皆殺しにした越前一向一揆掃討作戦の作戦計画を作ったのは明智光秀、冷血さを見ると、福を春日局に仕立てることなど簡単に行ってしまうと思う。春日局には徳川家康の手が付いていた。或いは徳川秀忠の愛妾で家光の実母であるという説もある。
春日局が重用されたのは明智光秀の娘だからだと思うし、斎藤利三→母の実家の斎藤家→三条西公国→三条西公国の長男、実条の養女→稲葉重通→稲葉正成を経て家光の乳母となったのは、出生の秘密を隠蔽するためだと疑う。
麟祥院北隣の智勝院は稲葉貞通が父、稲葉良通(一鉄)の菩提を弔うために1597年に建立した。稲葉貞通の兄は稲葉重通、妹は安。安は稲葉良通の娘で、斎藤利三に嫁ぎ、春日局を生んだと推定されているが、
春日局が徳川家康に重用されていたので明智光秀が真の父親だと思える。斎藤利三は山崎で戦い、敗走後に六条河原で斬首された。智勝院には斎藤利三の墓がある。
大心院の北隣にある本能寺の変の翌年1583年に創建された雑華院、開基の牧村利貞は稲葉重通の息子。春日局(福)は稲葉重通の養女となり、福は関ケ原の戦いの前に稲葉正成に嫁いだが、稲葉正成は慶長の役に参戦し、その後、関ケ原の戦いに参戦しているので、福との同居期間は最長でも1.5年程度と短い。雑華院の開祖は牧村利貞の弟で妙心寺住持、一宙東黙。
退蔵院HPには「宮本武蔵は妙心寺の住持になられた愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運びました。1624年、愚堂東寔禅師は江戸に行き春日局の帰依を受けた。」と記載されている。妙心寺住持、愚堂東寔の母は斎藤氏家臣の娘。以上のように妙心寺には春日局に関わる塔頭が多く、故事が集中しているが、整い過ぎているので、当事者間で打ち合わせをしていろいろなものを建造しておきながら、自然に建造したかのように装っている感じがする。
以前、京都のとある禅寺大本山境内塔頭の方丈を参観した際、ガイドが方丈西北の小部屋を指し、私はこの部屋には誰かが長期にわたり住んでいたと感じる。住職に聞いても「そんなことワシは知らん」と言うのみだが、誰かが住んでいたことは間違いないと述べられた。近年においても誰かを塔頭寺院に潜伏させることがあったと思える話から、冒頭に述べた秘密結社主構成員と思える武田信玄、勝頼が地下に潜った場合、潜伏先として妙心寺塔頭寺院を利用した可能性が有るのではないだろうか。
織田信長はジョルダーノ・ブルーノを背乗りしたとの説があるが、情報工作員として信長がローマにて晩年を過ごし、徳川幕府と清のために情報拠点を作っていた可能性はゼロではない。ジョルダーノ・ブルーノの経歴を見ると、生涯にわたり多くの思想書を執筆しているのに、1592年に逮捕されてから1600年に処刑されるまでの間は思想書を執筆していない。逮捕されてまもなく信長に背乗りされ名声だけを利用されたと読める。信長と会った宣教師が一人たりともローマに戻っていないことも信長がローマにいた根拠になると思う。信長は1534年生まれなので、妥当な寿命年齢だ。
細川藤孝は長男、細川忠興の嫁として親友である明智光秀の娘、明智玉子(ガラシャ)を迎え、二人の息子に家督を継がせている。そして千利休と深い親交があり、千利休は細川忠興を特にかわいがり一番弟子にしている。千利休が消えた十数年後、利休聚楽屋敷の跡地は、忠興とガラシャの息子、長岡休無が茶室、能舞屋敷として使った。普通に考えれば血縁関係がなければ使うことなどない。
徳川家に関係する寺社、城を鑑賞して回っていると、徳川家康が逃げ込んだ旧跡が実に多くある。それらの大半は影武者が逃げ込んだものだと思う。徳川家康は人生の中で女性の好みを3度、大きく変化させているので、本人も2回殺され、計3名が演じ、3名は共に武田信玄の息子だったと思う。長篠の合戦以降に生まれた息子達のみが宗家を継ぎ、御三家の初代となっているので一番目の家康は長篠の合戦で討たれたと推測した。妙心寺には春日局に関係する多くの塔頭があり、春日局の歴史をたどれるようになっているが、整っているが故に、春日局の父は明智光秀で、徳川家光の母は春日局、父は徳川家康もしくは徳川秀忠だとする説が真実だと思えてくる。