南禅寺 天授庵 書院南庭

隠された小堀遠州の庭

方丈前庭(東庭)の南側から書院南庭に続く道に来客者の足取りが軽くなるよう縦長の石が配されている。方丈前庭(東庭)のレベルが高かったので、次の書院南庭を早く見たい気持ちにさせられる。しかし鬱蒼とした書院南庭に入ると同じ天授庵の庭園なのかと思ってしまうほどレベル差がある。樹木の育つ夏はまだ目立たないが、庭の本質が見える冬は明治以降に手を加えた部分が特に目立つ。前回の記事にて天授庵 方丈前庭はその作風から小堀遠州によって作られたと推定した。書院南庭を観察すると、こちらも小堀遠州によってつくられたことが推測できる。しかし書院南庭は明治時代に小堀遠州の庭を隠す修正がされている。天授庵、正門・方丈・旧書院(庫裏)は1602年(慶長7年)細川幽斎により再興されたが、1467年(応仁元年)応仁の乱で天授庵を含む南禅寺全域が焼かれ再興されるまでの135年、伽藍はなく書院南庭は放置されていた。戦国時代の混乱期に建屋がない庭が135年も放置されれば再興時に庭の原形はなかったはず。仮に建屋があったとしても小屋のような建屋で庭は畑にされていた可能性がある。小堀遠州は南禅寺方丈庭園、金地院庭園を手掛けているので、同時に天授庵の庭を作庭しても不思議ではない。前回の記事で天授庵 方丈庭園は小堀遠州作と推定した。天授庵の方丈庭園を手掛けたならセットで書院南庭も作庭したと考えるのが自然だ。小堀遠州が壊滅的な荒廃庭園に対し、原形を回復させることを念頭に作庭し直したと考えた。書院南庭は明治時代に再改修されているので、今の庭は小堀遠州の庭でなくなっているが、あちこちに小堀遠州の技巧が見られる。新書院(大書院・小書院)が何時建てられたのか調べられなかったが、現在の書院南庭は新書院に合わせて明治時代に改修されたことは見て取れる。先ずは、1602年(慶長7年)に再興された方丈(本堂)・旧書院(庫裏)の遥拝先から小堀遠州が作庭したはずの書院南庭を想像した。方丈・旧書院・方丈と隣接する茶室は東に久能山東照宮を、南に熊野本宮大社跡(大斎原)を遥拝する方向に建てられている。茶室と熊野本宮大社跡(大斎原)を結んだ線は庭の東の池を通過し、成務天皇陵、孝謙・称徳天皇陵を通過する。

茶室内から目線を下げて庭先の東の池を見ることは成務天皇陵、孝謙・称徳天皇陵、熊野本宮大社跡(大斎原)を同時に遥拝することにつながっている。旧書院と熊野本宮大社跡(大斎原)とを結んだ線は西の池を通過する。西の池を見ることは成務天皇陵、孝謙・称徳天皇陵、熊野本宮大社跡(大斎原)を同時に遥拝することにつながっている。その遥拝線を更に南に伸ばし続けると潮岬付近に到達した。小堀遠州の庭は遥拝先の風景を庭に写すことが多い。東池は天皇陵周囲の周濠と見做し、周濠の先に見える成務天皇陵、孝謙・称徳天皇陵の風景を写したと推測した。西池は池を太平洋と見做し、太平洋側から見た潮岬付近の風景を写したもの、西池の蓬莱石組みは潮岬付近を表現していると推測した。現在は庭の樹木が鬱蒼と茂り十分に見えないが、この庭からは東山の山裾の小さな峰を見ることができる。その峰を熊野本宮大社に見立てたと推測した。新書院が建てられる以前、旧書院と西池との間は相応に広く白砂面も現在より広いものであった。今以上に広い白砂庭が旧書院内を照らしていたので照射量が多く、旧書院内は今の新書院よりも明るかったはずだ。旧書院内から今よりも明るい白砂と青空の間に西池、そしてスギの幹と幹との間に借景の東山を見て楽しむ庭だったはずだ。借景は東山の山裾だが、先ほど述べた少し突起している峰を熊野本宮大社の遥拝目印としていたと推測する。現在、庭の南端側に多数のタケ(モウソウチク)が植えられている。作庭当時、モウソウチクは未だ中国から移植されておらず、タケは一切植えられていなかったはずだ。美しい小堀遠州の庭に戻すのであれば、真っ先にすべてのタケを伐採し苔面に戻し、庭の南の境界線部分に大刈込を設け、借景視界の中に入る構造物を隠し、360m程南にある借景の東山の裾の小さな峰(高度差約55m)とそこから東山に続く稜線(高度差50~80m)を見せるべきだと思う。次に、現在の明治時代に改修された庭について考証してみたい。書院南庭に向けて突き出た新書院は奈良県御所市 日本武尊白鳥陵を遥拝する方向に建てられている。小堀遠州が作庭した書院南庭は熊野本宮大社を遥拝するためのものだったので明らかに庭の主旨を変えている。借景の東山の裾を竹林にて隠すことで、熊野本宮大社を遥拝する目印を隠し熊野本宮大社遥拝を封印したのだと思う。兼六園において、1880年(明治13年)西南戦争の戦死者を弔う石川県戦士忠碑と日本武尊の銅像が並んで建立された。それから類推するに、書院南庭の改造は1877年(明治10年)西南戦争記念として行われたと思う。露地門のような小さな門をくぐって書院南庭に入ると、足元に並べられた飛び石が略同じ大きさと形で、等距離に配されていることに違和感がある。西池の中にも同様の略同じ大きさの飛び石が規則正しく並べられている。この飛び石は庭の風景を無視した配置で、明治・大正・昭和の軍靴を履いた軍人が規則正しく歩きやすいイメージにつながる。日本武尊は白鳥となって天に昇ったという伝説を基に、東池、西池それぞれの池の中に鳥小屋を設け白鳥を飼っていたように見受けられる。池の周囲の樹木を茂らせ、天上だけを開放する鬱蒼とした池にし、キリスト教絵画のように天から太陽光が射しこむ風景を庭に画き、白鳥が天から舞い降りてきて池で泳いでいる情景を作り、その白鳥と戯れることができる庭に改造したように見える。現在、それら改造した部分が目障りとなっている。先ずは鳥小屋、朽ちかけ見苦しい。池の周遊路で変更された部分。庭の中を歩いている感じの部分が改造前の路だと思うが、公園の中を歩いていると感じる部分は改造後の路だと思う。年代の新しい石灯籠が風景を壊している。遊歩道の両側に差し込んだロープを張るためのコンクリート製杭が庭のリズムを崩している。池の美観を下げる護岸用コンクリート杭が目障りとなっている。書院周辺の白砂、池と庭との間の苔面が特別美しいので、これら改造部分が特に目立つ。書院南庭の西側、小方丈の付近、池の水が庭園外に流れ出る川が配の排水口近くに平たい2枚の大きな石にて橋が架けられている。その2枚の石の継ぎ目を割れ目のように見せている。その傍に大きな窪みを備えた自然石で作った手洗い石が置かれている。これら大胆な構造美は古田織部の美を継承した小堀遠州の品の良い女性美表現だと思った。小堀遠州の遥拝・礼拝という形から美の世界に入る庭は綺麗だ。以上のように書院南庭には小堀遠州の庭が隠されている。明治時代に改造した部分を元に戻すだけで綺麗な小堀遠州の庭に戻る。元に戻して欲しいと思った。