南禅寺 南禅院

夢窓疎石作 小堀遠州修正の曹源池庭園

「曹源の一滴水」から名をとった曹源池、禅を表現した庭だ。一条の曹源瀧から流れ落ちた水が曹源池、そして心字池に貯えられ排水される。二つの池は異なった悟りの境地を個別に表現したものだと思う。方丈西側と心字池との間は苔面で、その先に綺麗な水をたたえた心字池が南北方向に横たえている。池の中の蓬莱神仙四島(心字島)が心の池の中で座禅をしているように座している。東山の一角と鬱蒼と茂った樹木が池の四島に迫っている。東山の木々の間に鐘楼が見える。音が反響する空間だ。方丈で心字池を望む方向に座禅し聞く鐘の音は心に響くことだろう。次に、方丈の南に移動して曹源池の蓬莱島(鶴島・亀島)を鑑賞する。曹源池に水を注ぐ曹源瀧は直線部と湾曲部にて2種類の琴の音色を奏でている。水がいくつかの石にぶつかりながら直線状に落下した後、湾曲部を通り曹源池に流れ込む。流れ込んだ水は曹源池の東端と鶴島とを結ぶ細長い石にて直接、方丈側に流れ込まないようにし、鶴島に比べて小さな亀島にて開口部が広くなる方向に流し波を消している。

曹源池、心字池は共に東山、方丈で囲まれ、水面に風が到達しない。方丈から見える曹源池、心字池の水面は鏡面となっている。庭は方丈の南から西にかけて山が迫り、大木に育った樹木の上から太陽光が降り注ぐ。陽射しの方向にもよるが、天から降り注いだ光が鏡面となった曹源池の水を貫き池の底をそのままの姿で見せる。水面には樹木の緑も映っているが、池の底がそのままの姿で明瞭に見える。降り注いで来た光は苔面も綺麗に浮かび上がらせている。池の周りに植えられた多くのアセビ(馬酔木)と鏡面池にて深山に居るように感じさせられる。瀧音が方丈と山との間で共鳴し鑑賞者の心の垢を流してくれる。曹源池、心字池が悟りの境地を表現しているからだろうか、全体的にとらえどころの無い優しさがある。庭全体を見渡すと石の置き方が江戸時代初期に流行した前傾となっている。曹源池、心字池の間をまたぐ石橋が江戸時代のしっかりとした作りなので、江戸時代初期に護岸石を含む各石組みを全面補修、或いは取り替えたことは明らか。先の記事で、南禅寺方丈庭園、金地院庭園、天授庵庭園は小堀遠州により作庭されたと推定した。1467年、応仁の乱で南禅寺全域が焼かれた。南禅寺の復興が進んだのは1605年(慶長10年)以降なので、当南禅院庭園も荒廃していたことだろう。南禅院庭園も南禅寺方丈庭園、金地院庭園、天授庵庭園と同様に一から小堀遠州が作り直したことも考えたが、この庭には南禅寺の他の庭園のような遥拝先の情景が写されていない。よって、小堀遠州は修復し修正を加えただけと推測した。小堀遠州が手を加えたと見受けられる部分は、全体的な石組み部分と石橋。サツキと庭石とを組み合わせた形や石組みにリンガ的な表現を行ったこと。曹源池手前に礼拝石を加え熊野本宮大社跡(大斎原)遥拝ができるようにしたところ。サツキの刈込を意匠的なものにし庭にリズムをつけたことだと思う。南禅院は夢窓疎石(1275年~1351年)が作った庭を、戦国時代を通して守り続けていたが経年により形を崩していたものを、小堀遠州が南禅寺の他の庭園を作庭した際、当庭園にも修復、修正を加えたと考えるのが妥当だと思う。庭に隣接し亀山法皇分骨所があるので、戦国時代において庭が守られ続け、原形を留めていた可能性がある。夢窓疎石作の禅と悟りを表現した庭を尊重し、小堀遠州は修正だけに止めたと推測した。この南禅院の亀山法皇分骨所は天龍寺境内にある亀山陵に向いている。グーグルマップで亀山法皇分骨所と亀山陵とを線で結ぶと、その線は曹源池の鶴島中央を通過した。鶴島に置かれている鶴の羽のような石はその細長い部分をこの線に沿わせている。この技巧は小堀遠州のものなので、この庭は小堀遠州が修復、一部をシャープに改修したと断定しても良いと思う。江戸時代、東山は松林だったので、庭は今以上に美しかったはずだ。