慈照寺(銀閣寺)

衰退する室町幕府を画いた庭

応仁の乱が終了した直後、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところに銀閣が造営された。第8代将軍、足利義政(1436年~1490年)は庶民に段銭(臨時税)や夫役(労役)を課して造営を進めた。銀閣は人々の苦しみ、悲しみ、恨みの上に作られたことが想像できる。義政の芸術レベルの高さか、江戸時代の改修の結果か、庭から人々の苦しみ、悲しみ、恨みは感じられない、とても美しいものとなっている。庭園に入る直前の前庭にはマツが植えられ、白沙が敷かれている。これから鑑賞する庭園への思いを掻き立てられる。庭は銀閣(観音堂)、八幡社、方丈、東求堂、東山に囲まれたすり鉢の底にある。そこには池と銀沙灘と向月台がある。庭の中心は銀閣で、銀閣は庭のどこから見ても美しい。逆に言えば銀閣から見える庭はどの部分もすべても美しいのだろう。庭園東山部分に登り見晴らしの良いところから銀閣を見下ろすと、銀閣の後ろに街が広がり、吉田山が有り、更にその先に金閣寺付近の大文字山があり、愛宕山が見える。銀閣(観音堂)の借景も大きなすり鉢状を成し、庭の中で見た銀閣同様、借景の中に美しい銀閣が有る。池が銀閣を取り囲み、銀閣を取り囲むように多数のマツが植えられている。マツの枝が毛細血管のように空間内に広がり、銀閣と共に庭園のあちこちからその美しさが楽しめる。この美しさは室町庭園が持つものだろうか。芝面を設けず中国山水画の絵の中で遊んでいるような錯覚にさせる美しさがある。銀閣寺庭園と金閣寺庭園は同じ「すり鉢構成」だが、金閣寺庭園は空が広く明るい、ここ銀閣寺庭園は空が狭く内省的だ。相国寺方丈庭園も芝生を使っていなかった。相国寺3庭園(金閣、銀閣、相国寺方丈庭園)の美しさは苔面による謙虚な演出によるものだろう。黒松の枝振りが美しく、多数の美しい樹木が伸び伸びと育っているので、呼吸をしている木造建造物と樹木とが美しさを競い合っているようだ。それを促進しているのは太陽光を受けて庭を温かくする銀沙灘、向月台。太陽光の強弱にて建造物、樹木、銀沙灘、向月台、池の明るさと影に変化が与えられる。庭石が前倒の迫ってくる置き方ではなく自然風に置いてあるので庭全体に優しさがある。庭は刻々と表情を変える。せせらぎと瀧が庭に爽やかさを付与している。一般的に白砂庭園は天空の動きや色を映すものだが、銀沙灘、向月台は盛りあげられているので、空から降ってきた天の動きを庭全体で取り込み、鑑賞者に視覚だけでなく五感で天空の変化を感じさせるようになっている。沙盛された銀沙灘、向月台は一般的な方丈前の平べったい白砂庭園よりレベルが高い。瀬蘚亭跡、お茶の井に有る東山を削って多数の同系列色の石を挿し込んだ崖庭。一見すると普通の崖面に見えるが、同系列色の石を崖に不規則に差し込んだような石組みだ。築庭後500年以上の時を経たせいか、或いは手入れが難しい構造のせいなのか特別綺麗でもないが見ていて飽きない。心を引きつける。なぜ心が引きつけられるのか、石組み構成に起因するものかどうか判読できないが、東山の表皮を剥ぎ東山の心(体)を見せているようでもある。茶室が失われているので遥拝方向は判らないが、久能山もしくは多賀大社を遥拝し、源氏の祖先と対話する目的で作ったものではないかと思った。銀閣、庫裏、茶室はピッタリと東の久能山東照宮を遥拝する向きに建っている。本堂、東求堂は東の駿府城天守台を遥拝する方向に建っている。東求堂が建てられた1486年(文明18年)、そこには室町幕府から駿河守護に任じられていた河内源氏の今川氏の館があり領国支配の中心地だった。銀閣と清和天皇陵とを結んだ線は相国寺勅使門のすぐ南(相国寺境内)、そして龍安寺境内にある後朱雀天皇陵、後冷泉天皇陵、後三条天皇陵のすぐ北を通過する。銀閣寺のすべての建屋は南の熊野本宮大社大斎原を遥拝しているので銀閣も金閣と同じく源氏聖地遥拝所となっている。今は銀閣の西側に大木が茂っているが、創建当時は銀閣から相国寺、金閣寺が見えたのではないだろうか。吉田山の北の端が相国寺、金閣寺の遥拝目印だったのではないだろうか。庭園で一番目につくのは太陽光を反射する銀沙灘と向月台、これは相国寺方丈と同じく建屋が熊野本宮大社大斎原を遥拝しているので、熊野本宮大社大斎原が発する光を反射させ本堂内部に取り込む主旨だろうが、相国寺方丈前の白砂と違い、池の底をさらって出た沙を盛上げて作ったことで意味深いものになっている。江戸時代後期に作られたこの銀沙灘、向月台は易経基本八卦の天(空を映す)、地、雷(太陽エネルギーを受け雷のようなエネルギーを発する)、風(風のような模様を画いている)、水(模様が波に見える)、火(燃える太陽、月を写している)、山(沙を盛り上げた)、澤(模様が水の流れ)を表現したように見える。この銀沙灘、向月台の上に天、地、雷、風、水、火、山、澤を当てはめると、易経64卦のすべての象意を読み取ることができる。これにより易占の際に唱える文言の「吉凶得失,悔吝憂虞(かいりんゆうぐ)」を庭に刷り込んだと読んだ。室町幕府第4代将軍、足利義持(1386年~1428年)が自ら政治を行い始めた頃1411年(応永18年)、明と国交を断絶した。それ以降、税収入が激減し室町幕府は衰退を始める。1573年(元亀4年)織田信長が15代将軍、足利義昭(1537年~1597年)を京都から追放し室町幕府が終焉させるまで、室町幕府は砂上の楼閣のような政権だった。盛沙にて室町幕府が軟弱な政権だったこと、政権運営が吉凶得失,悔吝憂虞の連続だったことを表現したと読み取った。多くの観光客を惹きつけるのは室町時代の本質を庭に画き、人生の本質「吉凶得失,悔吝憂虞」を見せているからではないだろうか。