詩仙堂(丈山寺)

嘯月楼から小さな白砂庭と植栽で水の流れを隠した小さな池庭を楽しむだけではなく、高度差ある庭道を周遊しながら色々な情景が楽しめる。現在、多くの大木に遮られ京都市内が一望できないが、大木を伐採し、或いは刈り込めばすぐにでも本来の姿に戻れる借景庭だ。庭を一言で表現するとすれば、金森宋和(1584年~1657年)の修築とも伝わる三千院門跡 聚碧園にも似た朦朧とした表情を見せる陰の部分と、小堀遠州(1579年~1647年)の庭に似た太陽光をしっかりと受け止め、明るく見せる陽の部分が明確に分けられた陰陽思想を基軸としたものだ。石川丈山(1583年~1672年)は徳川家康(1543~1616年)に近く仕えていたが、1615年、大阪夏の陣で軍令に反し抜け駆けしたことが理由で浪人となり妙心寺に隠棲。1617年頃、知人・林羅山(1583年~1657年)の勧めで儒学者、藤原惺窩(1561年~1619年)に朱子学を学んだ。その翌年頃、紀州浅野家に仕官。1619年(元和5年)浅野家の転封に従って安芸(広島)に赴き、1632年頃まで広島で過ごした。浅野家には庭造りの天才で上田流茶道の創始者で幾多の戦果をあげた家老、上田宗箇(1563年~1650年)がいたので、上田宗箇から多く学んだはずだ。庭に上田宗箇の踊るような石組はないが、借景と地勢を利用した豪快なものだ。朱子学の「自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれている。自己修養により理(宇宙)を把握することで、社会秩序の維持が行える人となれる。」にて庭作りしている。石川丈山は「鷹が峰の本阿弥光悦(1558年~1637年)、八幡の松花堂昭乗(1582年~1639年)と共に、江戸幕府の意を受け京都の監視をしていた。」「小堀遠州など当時の文化人と広く交流したが、中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六(1579年~1643年)、京田辺市の一休寺(酬恩庵)の庭園は3人の合作による。」と伝えられている。詩仙堂は京都を一望できる監視活動に有利な高台にあり、嘯月楼は展望所そのものだ。防災と覗き防止のため二階建てを許可しなかった時代にこのような展望所を持つ屋敷を幕府の許可なく建てれたはずがない。1641年(寛永18年)、石川丈山が凹凸窠(詩仙堂)を建て終の棲家とし、京都の監視を仕事としていたことは容易に想像がつく。経歴から徳川家康が石川丈山を浪人としたのは、幕府直結の諜報部員とするためだったと読める。浅野家への仕官は上田宗箇に師事させ教育するためではなかったのだろうか。当時の国際情勢を見ると、1613年、ロシアで近代まで続いたロマノフ朝が成立した。1636年、李氏朝鮮は清朝に服従した。1644年、明朝が滅亡し清朝が北京で執政を始めた。日本においては、徳川家光将軍の在任(1623年~1651年)期間中に徳川政権の安泰政策が次々と行われた。1627年~1632年、紫衣事件により人民を管理する機関であった仏教界の最高権威者が天皇から徳川将軍に移行した。1635年、日本人の海外渡航・帰国が厳禁とされ参勤交代が確立した。1637年、島原の乱が起こり徹底したキリシタン弾圧が施行された。対外貿易国がオランダ、清朝、李朝朝鮮に限定された。東アジアにおいて新秩序が作られた時代だった。詩仙堂は源頼朝の墓がある(高野山)金剛三昧院本堂を遥拝している。詩仙堂と金剛三昧院本堂を結んだ線は清水寺三重塔、泉涌寺心照殿、伏見稲荷大社境内を通過するので、これらも同時遥拝している。よって嘯月楼南の白砂庭はこれら聖地が発する光を嘯月楼に取り込んでいる。東は浜松城(出世城と呼ばれていたので、徳川幕府の政策指標の発信がされていたと思われる)、西は(韓国)洞華寺(スサノオが50名の猛将を連れて坐したと伝わる新羅国牛頭山の地と思われる)方向に向いている。多賀大社本殿と糺の森(ただすのもり)の中にある河合神社本殿を線で結ぶと躍淵軒を通過したので神の通り道に詩仙堂がある。サラサラと音を出して瀧壺に流れ落ちた水が、嘯月楼の東側の軒下に消えるように見せながら、サツキ丸刈り群の下に隠して水を通し、石垣下の池に見えないように注ぎ込んでいる。判らないように排水している。常に澄んだ水が二つの池に留まっているが、たまり水ではなく清水だ。この技巧が冴えている。嘯月楼南側の白砂上に一つ大きな石を置いているが、手前に草木を植え石が目立たないようにしている。本来この石は大木群で隠された京都西南の借景山を大きく見せるためのものだ。左手のサツキの丸刈り群の間に小さな石塔が見えるが行き交う神々の降臨を願ったものか遥拝見印だろう。白砂が小さな石粒ではなく白地に固めた地面に白い砂をまぶしたもとなっている。有名禅宗寺院で見る白い小さな石粒の白砂庭と違えている。千利休だと思うが露地を白砂庭とさせないように、雪隠に白砂を用い、白砂の多用を防がせた流れを受け、このような白砂庭としたのだろうか?或いは権威ある寺院の白砂庭に遠慮したものだろうか。いずれにしろ高台にある白砂庭は庭が天の一部であることを強く意識させる。嘯月楼の東、詩仙の間の南には水が流れ、小さな石組みと多くの樹木を盆栽のように小さく育てている。小さなものをちりばめて見せることで、鑑賞者を愛おしい詩の世界へと引きずり込む。目立たない石さえも愛おしく見えてくる。時折「ししおどし」が発する庭園内に響きわたり、邪気払いをしている。庭に下り石階段へと進む。階段石の風が流れるような模様で眼が釘付けとなる。平面地から山道のような高低差のある回遊道を歩くと次々と風景が変わる。深く掘りこんだ沢に流れる水音に誘われ、沢を覗くと、傍に見えた山が迫ってくるように見え、沢の深さと山の高さを感じさせる。苔面の築山に続く山中の風景を朦朧と見せている。鑑賞点を少し替えれば見える風景が激しく変化する庭なので、見せ場は地でもなく山でもなく沢でもなく京都盆地でもない風に押さえこまれた風景に感じてしまう。十方明峰閣の南庭は大刈り込みの形が整いすぎているので近代庭だろう。庭のあちこちにいろいろな種類の花が咲いている。ひとつひとつの花を丹精に育て、花木を愛おしむことで、自己修養を積み重ねるためだろうか。あまりに多くの花が同時に咲いているので美が特定できない。一番たくさん植えられたサツキの花が一斉に咲く季節が、庭が一番輝く時だろう。以上のように技巧を散りばめた庭だが、京都の庭は手を入れ続けられているので、どこまで石川丈山が作庭したもので、どこからが後年、手を入れたものか判別しにくいところがある。少なくとも創建当時、モウソウチクは日本に存在しなかったので、現在のようにあちこちに竹が生えているようなことはなかったはず。入口門(小有洞)から次の門(老梅関)まで梅、椿など茶室で使う花木を植えていたと思う。庭構造が比較的単純なので、本来は庭先の京都市内、愛宕山、嵐山、双ケ岡、ポンポン山を借景とした、もっと豪快な庭であるはずだ。嘯月楼前の白砂の端から京都盆地を見下ろせるようにしていたのではないだろうか。この白砂面以外に、高低差の大きな庭の中に3箇所、平地があるが、その内、見晴らしの良い平地には京都盆地を見下ろす茶室があったのではないだろうか。現在、借景を隠し、高低差がある庭に池、沢などで凹凸を設け、爽やかな風を通り抜けさせ、石川丈山の生涯や人となりを偲び、石川丈山の美の世界に遊ばせることを目的とした自省的な庭となっているが、思い切って大木を刈り込み、本来の豪快な姿に戻した方が鑑賞者により感動を与えられると思う。借景を見せた庭こそが上田宗箇の豪快な庭に近いと思うし、石川丈山が理想とした朱子学の理想の姿を見せた庭だと思う。石川丈山が作庭したと伝えられる念仏の庭「東本願寺枳殻邸(渉成園)」、典型的な禅宗の庭「一休寺(酬恩庵)」と同じくここも借景庭だ。天の下に山があり、山裾に地を切り裂いてできた沢がある。そこを風が吹き下りている。この庭を大きく見ると易経「42風雷益(ふうらいえき)」が当てはまると思う。風が烈風となれば雷は迅速(しんそく)となる。雷が激すれば風も激しくなる。風と雷はお互いに助け合い、お互いが大いなる利益を得る。天が少し損をして風が吹けば、春の到来とともに活動を始めた地を震わせる。天(将軍)が少し損をすれば長い戦国時代で疲弊した地(民)は大いに豊かになる。江戸初期、幕府は躊躇なき財政出動を行った。目的は徳川幕府と民が将来に大きな益を得ること。それを画いた庭だと思う。