知恩院

知恩院の三門(山門)は驚くほど大きく、西北に門を開いている。これだけ大きな門なので特定の使節を迎え入れることを想定し、迎え入れる相手国の聖地に向け門を開いたと考えた。そこで韓国に遥拝先を求めたところ、三門建屋の北側の縁は797㎞先の(韓国)公山城にピッタリと合い、南側の縁は813㎞先の(韓国)扶蘇山城付近に合い、更にその線は新羅の首都があった金城(慶州市)の北側を通過した。公山城は475年~538年、百済の首都所在地。扶蘇山城は538年~663年頃まで百済の首都所在地だった。公山城と扶蘇山城は僅か27㎞しか離れておらずその間に古墳などがあるので、仏教を伝えてくれた百済に敬意を示し三門を百済の首都跡の方角に向け開いたと読んだ。この門は朝鮮通信使を迎え入れるために建てたのだろう。尚、三門は北の(熊川宿)家康の腰掛の松で有名な得法寺と(高野山)大門を結んだ線下にあり、この神の通り道は(京都)吉田山の斎場所大元宮の東にある神岡楽町の古墳-知恩院三門-高台寺庫裏-大谷本廟-この線に沿って建つ樹下社(豊国神社)の楼門-智積院境内-東福寺庫裡を通過する。これら聖地を遥拝する方向に三門は建っている。知恩院の男坂上端-三門の中央-新門の中央を結ぶ直線道の650㎞先には(韓国)桐華寺があり、この遥拝線は新羅の首都があった金城(慶州市)を通過する。すぐ近くの八坂神社HPに「(八坂神社)創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。」と説明されている。桐華寺を遥拝先に選んでいる歴史的建造物は多いので、桐華寺が牛頭山だと私は理解しているが、新門-三門の中央-男坂上端を結ぶ直線参道はスサノオ神を招き入れる、桐華寺に向けスサノオ神を送り出す意味を込めたのではないだろうか。新羅の創設年は前57年の説あり~935年まで続いているが、これからスサノオが牛頭山を訪れたのは紀元前後のことではないかと推測した。八坂神社の説明から類推すればスサノオの父、イザナギが国造りをしたのは新羅が成立したと同時期だと読んだ。つまり日本の歴史2600年は嘘で、類推すればイザナギ及びその息子のスサノオと新羅王は親戚関係もしくは親友関係にあり、イザナギと新羅王が協力し、お互いに国造りしたのではないかと思ってしまう。縄文時代、弥生時代、日本は高度な技術を持っていたのにイザナギ、イザナミ出現前の歴史は両名に関係すること以外、完璧に消されている。現代につながる日本の体制が成立した時から日本史には秘密が隠され、神話にて国造りの真実を霧中のものにしたと思った。新羅と百済に挟まれた任那の成立時期もはっきりしないが、大陸の進んだ技術を導入し、武器など物資を調達、備蓄、船積みするため、イザナギ・イザナミの国造り当時、すでに釜山に任那の前身となる拠点があったはずで、百済の建国頃、新羅を守るため任那を設立した可能性も有ると思う。知恩院(東経135度47分1.78秒)と東経で略一致する聖地は吉田神社(東経135度47分5秒東経)、清水寺(東経135度47分6.01秒)、神功皇后陵(東経135度47分7.22秒;神功皇后は、朝鮮半島に出兵し新羅を降服させ朝貢を誓わせ、高句麗・百済にも朝貢を約させた)、唐招提寺(東経135度47分5.4秒;鑑真和上がもたらした戒律にて日本が唐と肩を並べる国であることを証明した)、薬師寺(東経135度47分3.52秒)、橿原神宮(東経135度47分10秒;神武天皇の畝傍橿原宮があったとされる地で、日本が国家として成立したことを証明する地)、東経から知恩院は聖なる地にあると読み取れるだけでなく、神功皇后陵、唐招提寺、畝傍橿原宮(現、橿原神宮)と同じく東アジアを意識し朝鮮の聖地を遥拝することで、東アジア諸国にメッセージを発したと読んだ。清朝は現在の中国と同じく日本の情報を細部にわたるまで入手し、観察していたはずで三門の果たした外交的役割は大きかったと思う。百済の聖地を遥拝している巨大な三門、三門の前後に伸びる細長い参道が桐華寺方向に伸びていることを思いながら三門を眺めていると、スサノオ神とお供の神々が三門を潜り(牛頭山と思える)桐華寺と知恩院を往来しているように思えてくる。知恩院に戻ってきた、或いは出発するスサノオ神達は立派な伽藍上空で舞い、庭に遊び、八坂神社に宿っていることを連想した。庭はスサノオ神が遊ぶにふさわしい雰囲気でなければならないと思った。三門は1621年(元和17年)建立、法然上人御堂は1635年(寛永12年)再建、御影堂は1639年(寛永16年)再建、庭は1641年(寛永19年)玉淵が立派な伽藍群に引けを取らないように改作したものだろう。伽藍群建屋中で阿弥陀堂は北に吉田神社本殿、南に馬見古墳ナガレ山古墳を遥拝し、この神の通り道に沿って建てられている。その他ほとんどの建屋は北に(京都)吉田山、南に(奈良)賀名生行宮を遥拝する向きに建てられている。この遥拝線(神の通り道)下には大谷祖廟境内-豊国廟境内-藤原三代の墓-泉涌寺勅使門-伏見桃山城跡地があり、線の両側には奈良盆地の多くの古墳がある。伽藍中、小方丈と阿弥陀堂は西の(中国浄土教の聖地、西安)香積寺を遥拝する向きに建てられているが、御影堂、集会堂、大方丈など巨大建屋は文禄・慶長の役の際に(第一司令官)小西行長が入っていた(韓国)東莱邑城(倭城)、東莱倭城址を睨んでいる。伽藍の向きから伽藍の一部が浄土宗の聖地の香積寺を遥拝し浄土教の精気を伽藍に受け入れているが、多くの建屋は香積寺の約2度南の方角にある(釜山)東莱邑城(倭城)、東莱倭城に睨みを利かせていると読んだ。方丈庭園は、1775年(安永3年)の風水害により修理を兼ね改作されたもので、その後も手を入れられ続けられ、庭周囲の樹木が育ち続けているので、どこが玉淵の作であるか読み取れなくなっている。庭を鑑賞すると池の中に大きな石が置かれている。この部分は落ち着いて見えるのでスサノオ神が権現した姿を見せようとした玉淵の作かもしれない。大木の陰にて池に幽寂な雰囲気が漂い、池が白濁し、天に向かって伸びるアカマツにて、池底に潜んでいる龍が天に飛び立つふうに見せている。この部分が1775年の改作かも知れない。近年作られた美しい庭もある。改作と追加により混在感がある。小方丈の襖絵が雪景色なので、葉が少なく、空高く、雪が積もった時に一番美しくなるよう庭が作られているのだと思う。雪景色を確認していないので断定できないが、雪景色になればまとまりある庭になるのだろう。通常日においては庭が持ついろいろな思想が封印されているように見える。三門は日本と朝鮮を結びつけるスサノオ神が行き交うことを想定して建てられているので、当然ながら神々が上空で舞い、庭に遊んでいることを想像して楽しめるはずなのに、その雰囲気にない。伽藍は浄土宗の聖地を遥拝しつつ朝鮮半島を睨むように建てられ、庭に浄土宗の祈りが内在し、池にひそんでいる龍が天に上る姿が画かれているが、祈りの雰囲気は少なく、雷が轟き、龍が天に昇る勢いを感じない。近代の風潮に合わせた美しい庭もある。全体的に庭に含まれる思想が引き出されていない内省的な感がする。それは通路部分に白砂を敷いたことによるものではないだろうか。虚飾が似合わない庭なので、本来、白砂を敷いていなかったのであれば地肌に戻し、庭が持っている神々が遊んでいることを想像させ、浄土宗の祈りに浸らせ、雷音と昇龍を感じさせるようにした方が良いのではないだろうか。白砂を撤去すると近代庭園の美しさは減少するが、リンガ的表現を使った祈りの近代庭なので、江戸庭の祈り部分に同化すると思う。