岸和田城庭園(大阪府岸和田市)

岸和田城庭園(八陣の庭)

岸和田五風荘へ食事に出かけた際、隣の岸和田城まで足を伸ばすことがある。その都度、重森三玲(1896~1975年)設計の砂の上にたくさんの石を立てただけの単純で殺風景な庭がなぜ国の名勝庭園に指定されたのか読解できずにいた。築庭前からあったアカマツと築庭後に植樹したクスノキが大木となりこの庭を取り囲んでいる。天守閣が庭を見つめている。単純構造の庭は借景庭園、その原則に照らし天守閣から借景と一緒に見る庭かとも考えたが、天守閣から見る庭は小さい。広い風景の中の一つにすぎない。天守閣を降り庭の際で見る庭は白壁の上に青空が見えるのみ。

近代庭園なので当然かも知れないが、聖なる気を天守閣に取り込む三尊石の石組はなく蓬莱山表現の築山もない。多くの石は須磨方面を向いているが、その方面に蓬莱山と見立てる聖地は特に見当たらない。天守閣は強いて言えば出雲大社を遥拝する方向に向いているが、出雲大社の聖なる気を天守閣に取りこむため庭が作られたように見えない。

しかし立てられた石々は明らかにどこかの方向を意識している。

岸和田市のHPに「庭園は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。」と説明されているが、石々が何らかの方向を意識しているので、この解説以外の意味が隠されていると思っていた。

なぜ重森三玲が戦闘をテーマとしたのか、武家の戦法の基礎となった八陣法をモチーフ(表現理念)としたのか考え続けてきた。

岸和田は四国と摂津・京都を結ぶ水上交通の要であった。近代まで淡路島の南にある沼島と岸和田城を押えれば徳島から摂津・京都への水路が遮断できた。そのため岸和田城は幾多の戦乱に巻き込まれた歴史を持つ。波のように攻められ、波のように攻め出た歴史を持つが、この城が歴史の中心となりここで戦略が組まれ、各陣の中心地であったことはない。岸和田はあくまで各陣の一つでしかなくこの庭のモチーフと一致しない。

岸和田城を本拠としていた岸和田藩は天守再建の許可をもらいながらも天守閣を再建しなかった。海岸に近い城なので白壁の天守は海上から見て映えるが権威よりも出費を減らし藩財政を健全化させることを優先した穏便な岸和田藩とも一致しない。

もし岸和田城全体を江戸時代の姿にもどし、市民の憩いの場とするならば多数のアカマツを植え海に近い城のイメージを出し、すがすがしい天守閣を演出するはずだが敢えて殺伐とした庭とし、神社に植えられるクスノキで庭を取り囲んだ。

重森三玲の庭は戦場の場面に被せているものが多い。ふと中央の石が師団長に見えた。この庭は帝国陸軍第四師団の活躍を表現したものではないかと思った。

帝国陸軍第四師団が大阪を所在地としていたのは1888(明治21年)~1937年(昭和12年)。司令部庁舎は大阪城本丸天守閣近く。この庭も司令部庁舎と同じく天守閣のすぐ傍にある。

とすれば中央の石は第四師団の師団長の誰かだ。第四師団長歴任者で一番大きな戦績を上げたのは山下奉文中将(マレーの虎)だが、戦績を上げたのは第四師団長歴任後のことであり、更に師団長歴任中、同師団は満州に所在していた。山下奉文中将を第四師団長の歴史を代表する人として、この庭の中心石にしたとは読めない。

中心石などが向いている方向は日露戦争の戦場跡なので、中心石は日露戦争(1904年2月~1905年9月)前半、第四師団長だった小川又次中将だと推定した。

そこで第四師団長中、日露戦争に参加された方々とその略歴をWikipediaから書き出してみた。階級は第四師団在任中の階級とした。これを書き出すまでこれほど多くの日露戦争の英雄達が第四師団長に就任していたとは知らなかった。この名簿を見れば国の名勝庭園に指定されて当然だと思った。

尚、日露戦争で編成された作戦軍は陸軍が第1軍~第4軍、海軍が第1艦隊~第4艦隊、あわせて8となる。この庭の名「八陣法」は日露戦争において戦った8陣を表現するために用いた言葉ではないだろうか。

小川又次 中将(1848年~1909年;第四師団長1897年~1904年)日露戦争で第4師団を率いた。南山の戦いで敵左翼への集中攻撃を進言し攻略の糸口を作った。1904年(明治37年)8月、遼陽会戦で負傷し、師団長を辞し帰国。翌年、大将となる。

塚本勝嘉 中将(1847年~1912年;第四師団長1904年~1906年)日露戦争に歩兵第21旅団長として出征。日露戦争では、金州、南山などに転戦。1904年9月、中将となり、遼陽会戦で負傷した小川又次中将の後任として第4師団長に就任し、奉天会戦を戦った。

井上光 中将(1851~1908年;第四師団長1906~1908年)1899年に陸軍中将を任ぜられて第12師団長。1904年2月、日露戦争に出征し、戦後の1906年7月に第4師団長に昇進。1908年、大将に昇進。

土屋光春 中将(1848~1920年;第四師団長1908年~1910年)第27旅団長、台湾守備混成第1旅団長、近衛歩兵第1旅団長を歴任し、1902年に陸軍中将に昇進。日露戦争では乃木希典大将率いる第3軍隷下の第11師団長として旅順攻囲戦に参加。東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、1905年に新設の第14師団長として再度満州に渡る。1910年、大将に昇進と同時に予備役編入。

浅田信興 中将(1851年~1927年;第四師団長1910~1911年)1897年、陸軍少将に昇進。1898年、歩兵第20旅団長に就任し、歩兵第5旅団長を経て、日露戦争に近衛歩兵第1旅団長として出征。1904年、陸軍中将に進級し近衛師団長に親補され、沙河会戦以降の緒戦に従軍した。1912年、大将に親任される。最終官職は軍事参議官兼東京衛戍総督。

一戸兵衛 中将(1855~1931年;第四師団長1911年~1912年)1901年、陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。1904年、日露戦争に出征し旅順攻囲戦で歩兵第6旅団長として参加した。第一次総攻撃では盤竜山東西堡塁を攻撃し配下の大内守静歩兵第7連隊長が戦死する程の死闘となるも占領に成功。日本軍で唯一目標の占領に成功した。続く第二次総攻撃でも無名の1保塁(日本側呼称「P保塁」)を占領する武功を挙げその功によりこの保塁は「一戸保塁」と呼ばれるようになった。この戦功から個人感状を受ける。1915年、軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年、大将進級。

大迫尚道 中将(1854~1934年;第四師団長1912年~1915年)1898年12月から第4師団参謀長、1901年、陸軍少将に任官され野砲兵第2旅団長を命ぜられる。1904年、日露戦争に野砲兵第二旅団長として出征し旅順攻囲戦に参加、攻囲戦途上より第2軍参謀長に異動する。1915年、軍事参議官に就き、同年8月歴戦の功により陸軍大将に親任される。

仁田原重行 中将(1862~1925年;第四師団長1915年~1916年)1901年から留守第5師団参謀長に進み、1902年、大佐進級と同時に第5師団参謀長に就任する。1904年この職で日露戦争に出征し、戦中の1905年少将に進み歩兵第7旅団長を命ぜられる。1918年、陸軍大将に昇進し軍事参議官に親補される。

宇都宮太郎 中将(1861~1922年;第四師団長1916年~1918年)1901年1月に駐イギリス大使館附武官に就任。ロンドンに在って1903年1月に中佐、1905年3月には大佐に昇進する。この間、日露戦争中には明石元二郎・駐スウェーデン大使館附武官によるロシア弱体化のための工作活動(いわゆる明石工作)を支援。1918年に朝鮮軍司令官となる。1919年に大将へ昇進、翌1920年8月から軍事参議官となり在職中に死去。

立花小一郎 中将(1861~1929年;第四師団長1918年~)日露戦争では、第4軍参謀副長として出征した。1905年3月、奉天会戦直前に陸軍大佐に進級し大本営参謀に発令され帰国した。さらにポーツマス講和会議全権随員、アメリカ大使館付、陸軍省副官などを経て、1909年、少将に昇進し歩兵第22旅団長、歩兵第30旅団長、近衛歩兵第1旅団長、朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮駐剳憲兵隊司令官兼朝鮮総督府警務総長を務める。1914年、中将となり、第19師団長、第4師団長、関東軍司令官を歴任。1920年、大将となり、シベリア出兵では、最後の浦塩派遣軍司令官を務めた。

町田経宇 中将(1865~1939;第四師団長1919年~)日露戦争では、第4軍参謀として出征した。サガレン州派遣軍司令官を経て1922年、陸軍大将となり、軍事参議官を勤めた。

鈴木荘六 中将(1865~1940年;第四師団長1921年~)日露戦争で奥保鞏陸軍大将の第2軍参謀を務める。日露戦争後、参謀本部員、陸軍大学校の教官を歴任。1923年、台湾軍司令官。1924年、陸軍大将・朝鮮軍司令官。1926年、陸軍参謀総長。

村岡長太郎 中将(1871~1930年;第四師団長1923年~)日露戦争では第二師団参謀として出征した。当時の第二師団長は西島助義。第1次バルカン戦争ではトルコ軍に従軍した。1927年、関東軍司令官。1928年、張作霖爆殺事件の首謀者とされる。同事件の責任をとらされて予備役に編入され、翌年死去した。

菱刈隆 中将(1871~1952年;第四師団長1927年~)日露戦争では、第1軍参謀として出征した。1929年、大将に昇進、関東軍司令官、軍事参議官、満州国大使などを歴任。

林弥三吉 中将(1876年~1948年;第四師団長1928年~)1904年、歩兵第18旅団にて日露戦争に出征し、さらに第3軍と鴨緑江軍の兵站参謀を歴任。1927年、中将に進み教育総監部付となる。同年7月、陸軍歩兵学校長に就任。その後、第4師団長、東京警備司令官を歴任した。

建川美次 中将(1880~1945年;第四師団長1935年~)1904年8月、日露戦争に出征。1905年1月、満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の命により、騎兵の機動力を生かした建川挺進斥候隊の隊長として5名の部下を率い、ロシア帝国軍勢力地の奥深くまで挺進し1,200kmを走破、将校斥候に活躍。日露戦争の決戦である奉天会戦の勝利に貢献した。その戦功により、1905年(明治38年)2月、第2軍司令官・奥保鞏陸軍大将より感状を受け、『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』主人公のモデルとなる。陸軍屈指の実力者である宇垣一成の側近として重用され、1928年に少将に進級、1929年には参謀本部第二部長に就く。1931年 板垣征四郎(関東軍参謀)らが起こした満州事変に協力した。1936年、二・二六事件後の粛軍人事の一環として、皇道派将官と抱き合わせの形で予備役に編入される。 1940年10月に駐ソビエト連邦大使となる。1941年4月の日ソ中立条約に松岡洋右外相と共に調印。

以上、Wikipediaから抜粋したが、第四師団長歴任者31名中、15名が日露戦争を戦い、1名が日露戦争に関わる情報活動に従事した。正に半数が日露戦争を戦っている。モチーフにするに十分すぎるほどの内容だ。

庭に敷かれた砂は満州の荒れた大地、或いは雪を表現したように見える。それぞれの石は荒れた大地、或いは雪の上に立つ師団長、旅団長に見える。天守閣側に横たわる石は雪の上を走る馬に見える。あちこちに師団長が立ち、旅団長が立ち、参謀が謀議している。隊長が馬に乗って走る。日露戦争の戦場そのものではないか。第四師団を歴任した半数の師団長は日露戦争で多くの歴史を作った。大阪にそれを表現した芸術作品があってもおかしくない。

この庭の中心石は日露戦争開戦時、第四師団長の小川又次中将がモデル。この石と同じ風格を持つ天守閣側の石は日露戦争で小川又次中将に続いて師団長に就任した塚本勝嘉中将がモデル。天守閣側に馬が走っているように見える石は建川美次中将が馬に乗り走る姿と観た。その他の石々は日露戦争に参戦した師団長経験者らであることは観てとれる。その他の石々が誰をモデルにしているのか私には読み解けないので、誰か読み解いて頂きたいと願う。

細川高国の庭は庭石に武将や将兵を当てはめているが、庭に豊かさがあり石に生の匂いがする。この庭は上段、中段、下段と分け、段ごとに配置した石に明確な格差をつけている。述べたくはないがこの庭に立つ石には墓石のような匂いがする。縁石は墓地の境界石に見え立ち入りを拒んでいる。この庭に立つ石々は軍神であり、日露戦争で戦った満州を見つめている。庭そのものが軍神の聖域となっている。庭に降臨した軍神達を庭周囲のクスノキの大木が見守り続けている。

軍神となって庭の石に宿っているのはほとんどが階級の高い方々だが、実際に大量の血を流したのは大阪を中心とした関西の兵隊・下士官ら庶民の子である。この庭は第四師団に所属し戦死した兵隊・下士官の鎮魂の庭で、この庭の石々は日露戦争を戦い戦死した軍人の代表と言えるだろう。

庭のある本丸を取り囲む内堀の外周にはサクラが植えられている。サクラは遊興の花であり花見の酒席をイメージする。明治、大正、昭和の匂いがする。戦勝に酔うことを誘うこの庭にふさわしい演出だ。

庭の西北側にソメイヨシノ、ツツジ、サツキが植えられ庭に花をそえている。天守閣近くに紅葉を楽しむケヤキが植えられていた。本丸城門入ったところにはイチョウが植えられていた。秋の紅葉が美しいケヤキとイチョウは供養の意だろうか。

第四師団の軍神達の活躍を天守閣が見つめ続けている。

庭は1953年(昭和28年)12月に竣工し、天守閣は1年後の1954年(昭和29年)11月に竣工しているので、日露戦争50周年の記念として庭と天守閣を完成させたようにも見える。実現は難しいかも知れないが岸和田城天守閣でこの庭の軍神達の遺品を展示すれば庭は更に輝くはずだ。横須賀の三笠公園のようなものになるだろう。