五風荘 (大阪府岸和田市)

五風荘(ごふうそう)

南海本線蛸地蔵駅(たこじぞうえき)を降り150mほど北東方向に歩くと敷地を取り囲むウバメガシの大刈込沿いの道となる。大刈込に沿って更に60mも進めば入口の門近くに到着する。

大きな入口の門は鬼門方向に開いている。通常の邸宅では鬼門方向に門を設けない。理由が無ければ鬼門方向に門を設けることはない。五風荘の生い立ちを考えると、第四師団司令部(大阪城)の方角に門を開けたと考えるのが自然だと思う。

五風荘の2つの説明板を要約すると「寺田財閥の寺田利吉が、1929年~1939年(昭和4年~14年)庭園を造営、1937年(昭和12年)から3年の歳月をかけて建屋を造営した。」となる。その当時の歴史を振り返ると、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件、1931年~1933年(昭和6年~昭和8年)満州事変、1932年(昭和7年)満州国成立、1937年~1945年(昭和12年~昭和20年)日中戦争。造営時期はイギリス帝国とアメリカ合衆国に対する宣戦布告に向かって突き進む時期であった。邸宅と庭園は宣戦布告直前の軍需バブル期に完成した。

1943年(昭和18年)寺田財閥は投資先の4社を合併し軍事品になるワイヤーロープ、麻ロープ、麻布、紡織品の製造会社を設立した。傘下の工廠で軍事品にも使われる石綿加工業を開始した。この歴史を見ると、当邸宅と庭園は設立目的に沿い寺田財閥発展に寄与したことが判る。しかし、完成からわずか5~6年後1945年(昭和20年)に終戦を迎える。

現在、開かれることが少ないと思う当邸宅の正門は奈良東大寺塔頭中性院表門を移築したもので、楠木正成の「楠」の字をもじって「南木門」と称されている。当時の国の政策に沿った名づけをしている。

「南木門」は屋敷の高貴な位置にあたる西北方向にあり、傍らに築山を設け山門のように見せている。たくさんのマツが見える。主屋の南側のアカマツが泉南地区の明るい空にシルエットのように見え、海岸が近くにあることを感じさせる。剪定されたモッコク、そしてアセビ、アラカシ、イスノキと思える木々が門の気品を盛り上げ、山中の雰囲気を出している。

岸和田城の旧地図をチェックすると寺田財閥が庭を一から作り直したように見える。主屋から南向きに庭園を展開しているためか、武家庭園で感じる内省的な庭を感じることはない。豪華な近代庭園と言えると思う。

敷地外周の大刈込の生垣はイヌツゲ、ウバメガシなど枝先に葉が集中する木で構成されている。葉が花びらのように枝先についているので、来客者を笑顔いっぱいに迎えてくれる。鋸葉であるが葉が小さく、ヒイラギほど堅くなく、棘の無い木なのでソフトに感じる。大刈込の生垣上にクロキ? ヤブツバキ、クロバイ?などが見える。

旧第四師団司令部所在地(大阪城)を背にする方角から入口の大きな門を入いるとツツジ、サツキの丸刈り、アズマシャクナゲが目に入った。剪定されたモッコク、太い幹のクロキ、背の低いマンリョウなどが見える。高価なマツがあちこちに見える。玉散らしに剪定されたスギが1本見えた。ヒサカキなのか木の名前が判らない樹木が多くあるので断定はできないが、入口を入った前庭は年中花を絶やさないよう工夫しているように見える。

奥ゆかしい女性が出迎えてくれるが如く、可憐な花が咲く木々を選んで植樹しているように見える。柔らかく出迎えてくれる前庭だ。

本庭入口も鬼門方角となっているので夕方、庭の入口に向かうと逆光方向となり、足が進む速度が遅くなる。このような設計としたのは、この小さな門から直接、庭に入るのは朝の茶会の時だけで、それ以外は主屋から沓脱石を介して庭に入ることを考えてのことだろうか。本庭入口に植えられたトベラが小さな白い花を咲かせ本庭に招き入れてくれた。

前庭(門入口の庭)が花の絶えない女性的な庭とすれば本庭は男性的な庭だ。本庭に入って池に向かって歩くとアカマツ、スギ、ウバメガシ、イヌマキ、モッコク、クチナシ、ヤブツバキ、サツキ、ツツジ、ナンテン、マンリョウ、ゴヨウマツなどが目に入った。

木々の種類の多さ、大きくなる木を豪快に大きく育て葉を豊富に蓄えさせていることに圧倒される。これだけの木々が落とす葉の清掃はたいへんな作業だろう。たくさんのマツが植えられているが燃えやすいマツの葉が余り落ちていない。日々の管理が行き届いていることを感じる。この庭の清清しさは行き届いた管理から来るものだろう。

池の端に立つと、池対岸の鎮守社の傍らに育つこの庭の王者樹クスノキがひときわ大きく見える。クスノキを中心にシラカシ、アラカシなど森の木が取りまいている。庭の中にスギなど神が降臨する樹木は少ない。楠正成を連想させるクスノキの大木が祠に降臨した神を見守る形となっている。

気がついたのはサクラの大木が無いこと。詳細に見ていないので断定できないがウメにも気づかなかった。築庭時に庭園内で酒席が開かれることがないようサクラ・ウメを植えなかったか、その後植えられたが大きく育てなかったのではないだろうか。

石橋から池を見ると白いスイレンの花が見えた。鎮守の森と主屋との間の青い空を背景にした幾本かのアカマツが美しく見えるクスノキの大木は神社の境内でよく見られる。マツは街道や海岸でよく見られる。日本の原風景で見る木々だ。ガラス張りの茶室「山亭」を目で追いながら順路に沿って歩き進むとアオキ、ヤブツバキが目に入った。サツキが花を咲かせていた。振り返って腰掛待合を望むとカエデの大木があった。

庭に石灯籠が置かれているが、樹木が育っているためか、近代庭園特有の石灯籠が目障りになるほどに目立つという訳ではなく上品に見える。

ガラス張りの茶室「山亭」付近でもカエデ、ヤブツバキが古木のようになっていた。茶室「山亭」付近から邸宅(屋敷)を見ると、蓬莱島のアカマツがダンスしているように見える。池の水際にはショウブの白い花が咲いていた。「山亭」は庭の南側にあるので太陽を背にして邸宅(屋敷)が望める。このポイントからクリアに庭や屋敷が見え美しい。屋敷がレストランとして使われているからかも知れないが、この風景に武家庭園で見られる内省心の育成といった民を統治するため自らを律するべきといったような圧迫感はない。清涼感を感じるのみである。この風景は軍関係者を接待し、喜ばせるために造ったのだと思う。昭和の延長線上にある現代人の心も癒してくれる。「山亭」の奥、祠の南側に枯瀧があり、周辺に多数本のショロが植えられている。ウバメカシの傍でシュロが背高となっている。枯瀧と枯川は鳥居を意識した作りとなっているので、シュロに殉教、戦勝の意味を持たせたのだろう。このあたりは戦争の記憶を忘れさせるが如く落ち葉が積もり薄暗くなっている。鎮守社には岸城神社と同じ八幡神が祀られている。商売の神ではなく戦いの神を祀っている。祠はだんじり祭りを連想させる形となっている。

奥の本格的な茶室付近にはモミジ、ヤブツバキが植えられていた。二つの茶室付近に流れる空気は先ほどまでの庭の空気とは異なる。主人と客とが真剣勝負で会談するといった緊張感がある。アカマツなどの大木の下にナンテン、ヤブツバキなどを育てそれらの幹を見せているからだろうか。何時でも茶会が開けるよう茶室の清掃、落ち葉清掃が行き届いているからだろうか。

順路に沿って茶室エリアを抜け主屋近くの小川に至ると穏やかな水の流れが見え、茶室付近の緊張感から解き放たれる。サツキが咲き、青い菖蒲の盆栽が小川の中に置かれていた。

主屋からは築山にて、鳥居や祠が見えないようになっている。それぞれのエリアで異なった雰囲気が味わえる庭だった。庭内にはたくさんの石が置かれているが、石の平面を上面としているせいか、種類の多い樹木にて石を隠しているせいか、或いは近代の庭に三尊石、蓬莱山といった石や築山に神を宿らせる思想をもたないせいか、石が目立たない。庭の中に神社を設け戦勝祈願しているが、遥拝先を持たない庭なので戦争目的や目標といったものを庭に持込んでいない。夜になり、主屋内の部屋からライトアップされた庭を見るのも楽しい。木々の間から見える深い青い空はノスタルジアの世界に入ることができる。酔いが回り主屋二階の大宴会部屋から見る庭も良い。部屋周辺の大木と、少し離れて見える池との遠近感効果で、日本の美しい庭を雲の上から見下ろしているように感じる。天上の世界で宴席を楽しんでいるような気持ちにさせてくれる。足元がおぼつかない状態で足元に広がる庭を見ていると池が遠くになったり近くに来たり、天上の世界から懐かしい世界を見つめているようで童心に帰らせてくれる。この庭は誰もが子供の時に遊んだ「祭り」「海水浴」「山の中」などの世界へ舞い戻らせてくれる。子供の時に見た風景がある。日本の原風景がある。この庭の魅力はそこにあると思った。

大きな池、大木に囲まれた大きな主屋で夏の暑さをしのぎ、蝉の声を聞き、昼寝を楽しむに最適だ。冷えた西瓜は格別にうまいことだろう。たくさんの木々に囲まれているので年間を通して鳥のさえずりや色々な小鳥の姿を楽しむことができる。夜、食事を終え邸宅(屋敷)から出るとライトアップされた岸和田城天守閣が見える。昼は太陽を背にして天守閣を望むのでクッキリと見える。ほろ酔い気分を引き締めてくれる素晴らしい演出だ。前庭が借景庭園に生まれ変わっていた。