大阪城

消された江戸時代の美しさ

天守閣から大阪砲兵工廠の焼け跡を幾度か見たが、子供心になぜ片付けをしないのかと思った。立派な石垣の大阪城を見慣れたせいか、明るい姫路城天守閣の城壁、意匠に優れた金沢城の城壁、豪快な熊本城の城壁ですら大阪城の質感ある切り石を使った城壁、石を彫って作った芸術品のような鉄砲狭間にはとても敵わないと思ってしまう。現在は太閤秀吉を偲ぶ城、第二次世界大戦の傷跡城、幾度もの火災で石垣が黒ずむ殺伐とした面を見せているが、江戸の大阪城は仏教的な祈りの美しい城だったことが城壁と櫓の向きから読み取れる。大坂城は1533年(天文2年)石山本願寺が創設され濠や土居が築かれたことに始まる。1580年(天正8年)石山本願寺は織田信長との石山合戦に敗れ、明け渡し直後に消亡した。1582年(天正10年)本能寺の変の際に大阪城代として布陣していた織田信長の甥、津田信澄(1555年~1558年)は丹羽長秀家臣と上田宗箇に討たれた。豊臣秀吉が築いた大阪城は1615年(慶長20年)大阪夏の陣で落城した。1629年(寛永6年)現在の姿につながる城を完成させた徳川秀忠の大阪城は1660年(万治3年)火薬庫への落雷で大爆発事故を発生させ、1665年(寛文5年)落雷で天守閣を焼失した。豊臣天守閣は約30年間、徳川天守閣は約36年間、共に短い威容期間だった。1868年(慶応4年)新政府軍に明け渡し直後、建屋のほとんどを焼失した。1871年(明治4年)に大阪鎮台そして帝国陸軍第四師団の司令部所在地となった。第四師団は創設以来、国内外で戦い続け、一度の負けもなかったが終戦後消滅した。1945年(昭和20年)の空襲で慶応4年の焼失を免れていた建屋の大半も焼失した。近代建造の司令部庁舎以外、軍事施設は壊滅した。攻められ一度も勝ったことの無い全敗城。占領軍がいた期間も占領軍の失火で紀州御殿を焼失した。占領軍退去の1948年(昭和23年)以降、大阪城は江戸時代の平和シンボル理念に戻ったが、江戸時代の美しさは戻っていない。石垣は江戸時代初期のままなので、大阪城に掛る聖地を結んだ線、天守閣の向き、石垣ラインから遥拝線が読み取れる。大阪夏の陣までの不幸な戦いを考慮してか仏教色で染められた城だったことが読める。ブッダガヤの大菩提寺と興福寺中金堂を線で結ぶと、大阪城北側の内堀を通過した。ブッダガヤの大菩提寺と春日大社の幣殿・舞殿を結ぶと大阪城天守閣の中心付近を通過し、その線を東に少し伸ばすと三笠前山(御蓋山)山頂付近に到着した。ブッダガヤの大菩薩寺と唐招提寺の開山御廟を線で結ぶと大阪城南の外堀外側、難波離宮公園の北約50mを通過した。ブッダガヤの大菩薩寺から大阪城を見ると背後に生駒山、その背後に興福寺、東大寺、唐招提寺、更にその背後に春日山、御蓋山が控えていることになる。ブッダガヤ大菩薩寺と(奈良)旧大乗院庭園を結ぶと豊国神社、秀石庭を通過した。本丸南側の石垣上面ラインはブッダガヤの大菩薩寺遥拝線に合わせてあるので、このラインを利用していた櫓はブッダガヤを遥拝していたことが読める。天守閣、小天守台石垣、天守閣の北側にある本丸出口石垣、本丸から出たところの山里口出枡形跡石垣の上面ラインに沿って西に遥拝先を求めると、禅の発祥地「少林寺」、或いは玄奘(602年~664年)がインドから持ち帰った膨大な経典を翻訳した拠点(中国西安)大慈恩寺に至った。東は薬師寺へ至った。(中国)嵩山少林寺と薬師寺東塔中心を結んだ線(A線)は2,087km、A線は天守閣の北約250m大阪城の外堀を通過する。(中国西安)大慈恩寺と(奈良)薬師寺東塔中心を結んだ線(B線)の長さは2,453km、B線は大阪城天守閣北約500mの大川(旧淀川)と寝屋川の合流付近を通過する。尚、B線は(中国)嵩山少林寺の約17km北側を通過する。A線、B線共に長いので、嵩山少林寺と大慈恩寺は略同じような方角と言える。よって天守閣及び周辺の石垣部分にあった小天守、櫓などの建屋は西に少林寺、大慈恩寺を、東に薬師寺を遥拝する方角に向けて建てたと読める。天守閣にはブッダガヤの大菩薩寺に関係する遥拝線があり、少林寺、大慈恩寺に向けて建てられているので、江戸天守閣は大仏を連想させるように作ったのではないのだろうか。大手門及び外堀を越える参道は鑑真が住職を務めた(中国揚州)大明寺に向けて開かれている。大手門から外堀を越えて外出することは大明寺に向かうことに通じている。外堀をまたぐ石垣は西の(奈良)神功皇后陵に向けて建造したように見える。(中国揚州)大明寺中心と神功皇后陵を結んだ線1,536kmは天守閣のすぐ北、山里口出枡形跡を通過する。本丸北の山里丸の西北側の城壁上面ラインを西に伸ばすと(中国浙江省)天台山、国清寺に到達したので、山里丸西北側にあった櫓は国清寺を遥拝していたことが読める。本丸北の山里丸から極楽橋に出る部分の石垣ラインを西に伸ばすと(中国山西省五台山)南禅寺に到達した。山里丸から極楽橋への出入り口にあった櫓は中国南禅寺を遥拝していたことが読める。京橋口の出入口は中国承徳避暑山荘に向けて開かれている。大阪城の京橋口から西北方向に出て外堀を越えることは清朝の承徳避暑山荘に向かうことに通じている。(中国山東省泰安市)孔子廟と天守閣を線で結ぶと乾櫓を通過するので、乾櫓は孔子廟遥拝目印だったことが判る。以上のように江戸大阪城はブッダガヤの大菩薩寺、中国仏教各寺院、清朝の宮殿などを遥拝する平和な遥拝先を持っている。イメージ付けされている豊臣秀吉を偲ぶ城でなく、太平の世を祈る城であったことが読み取れる。次に日本国内の遥拝先を捜した。本丸城門(桜門)は丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)を遥拝し開かれていていた。桜門南側の内堀をまたぐ石垣通路に沿って北に線を伸ばすと(亀岡)穴太寺に到達した。玉造口跡周囲の石垣も丹生都比売神社に向いているので、玉造口の城門や櫓も丹生都比売神社を遥拝し開かれていたはずだ。玉造口跡南側の通路も丹生都比売神社へ向かって伸びていた。本丸北側に架かる極楽橋に沿って北東に線を伸ばすと貴船神社奥宮に到達した。この遥拝線の両側には貴船神社本宮、龍安寺、仁和寺があるので、橋を渡ることは貴船神社本宮、龍安寺、仁和寺に向かうことにつながっている。東北の青屋門は多賀大社に向け開かれている。青屋門から出ることは多賀大社を遥拝することに通じている。大阪城天守閣と(水戸)偕楽園好文亭を線で結ぶと、その線は名古屋城本丸御殿を通過した。偕楽園は大阪城と名古屋城を結んだ線上に作ったことが判る。各櫓の遥拝先を探ればもっといろいろなことが読めるはずだが、以上の遥拝線、聖地に向けた参道だけでも日本各聖地の神々を城に招き入れる徳川幕府の貫録を見せたものとなっている。1868年(慶応4年)新政府軍が乗り込み、その直後に多くの建屋が焼失して以降、江戸大阪城は平和目的とは違った使い方がされた。明治政府は大阪城を軍用地とし、城内西側に巨大な大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)を設けた。1885年(明治18年)和歌山城二の丸より御殿一部を移築し、大阪鎮台の司令部庁舎とした。その後建造された旧第四師団司令部庁舎は(対馬)海神神社を遥拝している。1931年(昭和6年)完成の鉄筋コンクリート製天守閣は豊臣天守閣をモデルとした。1961年(昭和36年)大阪城内に豊国神社を遷座させた。江戸江戸大阪城は苛めつづけられている。大阪城には紀州御殿跡付近の日本庭園、豊国神社境内の重森美鈴の庭、西の丸庭園があるが、江戸庭園は見当たらない。徳川幕府の威信をかけた城だったので、城内に庭がなかったとしても、城に隣接して大名庭園があったはずなのに跡かたもない。石組、橋、樹木を取り外し明治維新後、荒廃した京都御所の庭園に転用したのでは、城内にあったはずの多数の赤松も京都御苑に移植したのではないかと推測した。旧第四師団司令部庁舎は海神神社を遥拝する方向に建っているので、少し離れているが庁舎建屋の西側に庭があるので、海神神社遥拝庭とも読める。この日本庭園はスマートな護岸石組、池に龍頭のように突き出した小さな半島からなる。石の色は武家庭園のものではない。池の南側に州浜があり、そこから見た天守閣は池に反射し雄大に見える。天守閣を高く、大きく見せる点で優れた庭だが、豊臣秀吉時代の模造天守閣を大きくみせる演出庭に見えてしまう。もし江戸時代の平和な庭に戻すなら池の周りの樹木を赤松に植え替え、大きく育て、大慈恩寺を遥拝する建屋を庭の東側に建てれば良いと思う。大手門に残されている江戸時代の平和祈願、自己修練の大阪城こそがこの城が持つ潤いある美しさなので、大阪城全体に大手門付近のような情景を取り戻して欲しいと思った。