養翠園(2)

徳と智恵で知識を使うべきと教える庭

養翠亭南部屋から汐入の池の中島に建つ弁天社と稲荷社を拝めば借景の天神山の山を越えたところの紀州東照宮本殿を拝むことに通じ、養翠亭南部屋から標高93mの天神山山頂の少し北を拝めば天神山の山を越えたところの和歌浦天満宮を拝むことに通じている。そこから、ここは紀州徳川家の庭で、学問を重んじた、信仰に包まれた庭だと感じる。養翠園は和歌山藩主で教育熱心な知識人だった徳川治宝(1771年~1853年)の作品で、養翠亭南部屋から信仰山である天神山を拝するよう、そして天神山を映す汐入の池と池周囲に植えられたマツにて作られたデジタル的な風景にて、思索を巡らせられるようにしている。天神山に昇る太陽や月、汐入の池に映る太陽や月を、上下にある二つの火の玉と見せ、易経「30离为火(離為火)」を表現し、離卦の教えである、知識と智恵の違い、知識は智恵と徳により使うべきことを教えている。その背後には徳川家創始者、徳川家康を祀る紀州東照宮と学問の神様、菅原道真を祀る和歌浦天満宮が控えているので、日の出、月の出は神々しいことだろう。この庭が語る離卦の教えを書き出してみた。志を持ち学び始めると燃え始めた火のように輝く。師を尊重し、周囲の人々をも尊重するので、他人からも尊重され、純粋に学べ、学問を重視でき、学問を追求できる。師を尊敬し師から多くのことを学ぶも、一定レベルに達すると火が燃え移るように師に別れを告げ、新たな学びの世界へと移り、火が燃え上がるように学びを進める。知識が増えると周囲の人々に私心なく調和でき、更に学問が進む。私心が無いので天の動きを見て天の意思に沿って知識が使えるようになる。しかしながら多くの知識を使いこなせるようになり、世間で活躍し始めると、私心で知識を使うようになり陰気が増え、禍に巻き込まれてしまう。再び私心を捨て、天の意思に沿い、智恵にて知識を使うことを心がければ咎めはないが、往々にして人は欲に負け、自分の思い通りにならないことで愚痴を吐き、火が衰えていくことを楽しむように学問への志を衰えさせ、学問を火で焼いてしまうことを楽しむように志を焼き尽くし、学びを止め名誉、財産、地位の獲得に精を出してしまう。学問への志の火を消さなかった人は焦らず、急がず、時間をかけ学び続け、研究に没頭するので、やがて学問における成功者となり、成果を上げ続けられるようになる。成果を上げることを焦らず、引き続き地道に研究を続けていると、いずれは名誉を得ることになる。しかし、名誉を得ると講演など研究以外のことに追われる身となり、学問を追求する時間が減り、研究に没頭していた時のような充実した時間が減り成長が止まってしまう。オリンピックのメダリストが講演者、スポーツ解説者、芸能人となり、スポーツをする時間を失い、栄光だけが輝く虚名選手となるように、虚名権威者となりがちだ。一度でも高い地位、大きな財産、大きな名誉を獲得した人は多くの人から尊重され続けるので、虚名権威者になっても、多くの人に夢を与え続ける権威者として難なく過ごせる。高い表彰を多く受けた真の権威者であっても、後輩に抜かれ、最高権威者でなくなるのは自然現象で、抜かれたら、抜かれたことを謙虚に受け入れ、自らが長い年月をかけて手に入れた知識を生かし、衰えた火の時を過ごすように、知識人の最後の勤めとして、智恵と徳にて、人の助けにならない知識、害がある知識、批判ばかりの邪悪な知識を消す活動に入ることになる。これら悪い知識を消す活動において、他人が説話を聞いてくれても、聞いてくれなくてもどうでもよく、他人が正しい知識を基に正道を歩くように導くのが仕事になる。知識は人類共有の財産なので、正しく使われ、人々に正道を歩かせるようにするのが権威者の最後の勤め、子供用図鑑の執筆者がその世界の権威者であることが多いことを見れば、易経の教え通りに世の中が回っていることが判る。現代の中高教育は、生徒の知識を増やすことを目標とし、生徒を偏差値の高い学校に送り込み、将来エリートになれるような国家試験に合格でき、官庁や一流企業に就職できる生徒の育成を行っている。教科書内容のすべてが会得できる知的好奇心の高い学び好きな生徒は少数で、大多数は自分のため、立身出世のためにと勉強を強いられ、知識を詰め込まれる。大学は知識を使って研究を進める場だが、学びは各人の意志にまかせている。総じて、学校生活では智恵と徳により正しく知識を使う方法を教えてもらえるチャンスは少ない。卒業し官庁、企業、団体などに就職するが、組織はそれぞれが持つ宿命を粛々とこなす場であり、学校生活のような自由はなく、平等な人間関係などないため、多くの学卒者は学校と大きく違う組織に勤め続けることに嫌気し、自分の居場所を探し転職を繰り返し始める。有名大学卒業生をマスコミや世間が持ち上げすぎていることにも問題がある。この風潮により名誉を追い求める実の少ない学会が作られている。世間で低く見られる労働者、アルバイトなど過酷な労働を行う民が支払う税金、民が生み出す製品、サービス、農作物で社会が成り立ち、有名大学が成り立っているが、有名大学を卒業することで名誉を手に入れ、政治家になった人の中には国民のために働いている政治家などいないなどとうそぶく者がいる。有名大学を卒業し官僚となった者の中には自分の出世と利のために働き、民に更なる犠牲を強いる者がいる。中高教育で自分のために勉強しろと教えられた通り自分の利のために知識を使っている。自らは民の支えでエリートになれた恩を忘れ、民を搾取することで自分の地位を守り、富と名誉を得ている。このような腐敗者が日本を運営していることは周知なことだ。智恵は道理を考え適切な行動を考え実行することなので悪いことは行わない。徳は自らの努力で得た品性と他人から受けた恩を抱き行動することなので思いやりがある。よって智恵と徳を働かせて知識を使うことが人としての基本行動原則であるが、智恵と徳について教えてくれる人は少ない。人々に智恵を授け、幸せの本質を教え、母親の無償の愛など恩を教える役割を受け持つ仏教界は今、仏教離れの危機的状況の中にある。長い歴史を持つ檀家制度に仏教界は依存していたがために、檀家の減少と共に衰退が始まった。本格的な修行を志す僧侶の減少で、衰退に拍車がかかったが、最大の要因は一般人で仏教から智恵と徳を学ぼうとする人が減ったことにある。現代人が知識と情報で地位、富、名誉を獲得しようとする根本理由は一旦、地位、富、名誉を得れば、その地位や富を失っても、最盛期に得た名誉が生涯にわたりその人に付き、多くの人から尊敬され、尊重され、敬われ、収入が付いてくる社会だからだ。しかしながら、火を見れば、火が燃え尽きた後に何も残らず、特に美しく大きな火ほど何も残さないように地位、富、名誉を得た大多数の人は亡くなると世間から忘れ去られ、智恵と徳を持たない子孫はそれらを引き継げないことは周知のとおりだ。離卦は、人は雌牛のような徳性を持ち、私心を捨て仕事を行い続けることで難や咎めを避けることができる。自らの仕事について、周囲の人が理解してくれるまで説明をしなければならないと教える。四方を照らす火は私心を持てば消えてしまうので、私心を捨て徳、智にて知識を使うことを心がけ、食べることを忘れ、憂慮することを忘れ、老いることを忘れるほどに働けば、重厚な明かり、大きな明かり、長い明かりで周囲を照らし続けることができ、自らの仕事で苦労すればするほどに徳が積めると教える。現代において、智や徳を得るには天職を掴み、仕事の苦労にて智や徳を習得するしか手は無いようだ。そして地位、富、名誉を追求するより、徳を積む方が子孫を幸せにできる。