維持費用がかかる大名庭園を藩内に持たない福岡藩だったが、1754年(宝暦4年)6代藩主、黒田継高が隠居屋敷として友泉亭を建立した。藩主は農民との一体感を持つため、庭池の水源を樋井川(ひいかわ)と湧水に求め、庭池を周辺水田の水源とした。周辺農民にとって死活にかかわる庭池となっていたからこそ1878年(明治11年)周辺の村が連合して友泉亭を買い取り小学校にした。小学校転出後の1889年(明治22年)周辺の村が合併し樋井川村になると村役場を置いた。1928年(昭和3年)炭鉱王の貝島家が持ち主となり別邸を建て、戦後、貝島系列企業などの利用の後、1978年(昭和53年)福岡市に寄付され、1981年(昭和56年)から一般公開された。どこにも記述はないが、黒田継高が農民と一体感を持つため庭池を水田の水源にしたことが福岡市民に愛され続けてきた理由だと思う。明治以降、当地農民、貝原家が友泉亭を守ったので神が立ち寄る庭だと思いグーグル地図に線を引いて見ると、(対馬)海神神社と(宮崎)天岩戸神社西本宮を結ぶ神の通り道が、大広間がある友泉亭管理棟を通過した。森のような樹木に囲まれた庭池は神が遊ぶ池となっていると思う。庭は京都御所のように近代庭園と江戸庭園が混在している。京都御所と同じく樹木を森のように育て借景を消し去り、豪快に水を流す瀧などで憩いの近代庭園となっているが、熊野灘を模した黒い玉石が池の水際にあり、石の頭を水面から出すリンガ表現あり、おとなしい護岸石などから祈りの庭の一端が読み取れる。舟付場があるので、舟から十五夜の満月を楽しんだことも見て取れる。江戸時代は屋敷内から水田が見渡せ、黒田家当主と農作中の百姓が心の交流が行っていたことは間違いない。もっとも現在は周囲が住宅街となり借景を求めることができなくなっているので、庭池に神が遊ぶ姿を想像しながら上品に鑑賞、散策する庭となっている。神社境内の池庭の雰囲気がある。黒田継高は易経「37風火家人(ふうかかじん)家を正す」人が安らぐことができるのは家であり、その家を整え、家中の人々の団結心を育てれば天下安泰することを庭に表現し、黒田家継続を祈る庭としていたと推測した。現在は山に生い茂った樹木が池を圧迫する形にあり、樹木の陰に綺麗な苔面がある整った庭なので易経「27山雷頤(さんらいい)食し養う」鑑賞者の心を養うことを目的にした庭になっていると思った。