見浜園

大名庭園のように中之島あり、半島あり、その芝面が開放感と優雅さを、綺麗に剪定された多くの松が日本庭園の風格を添えているが、借景の山は無く、三尊石、権現石、座禅石、遥拝石が無く庭に祈りが込められていない。大名庭園は借景の山々にて、底から湧いてくるエネルギーを助長し、祈りの三尊石にて庭の中心を作り、あちこちに神佛宿る権現石、神佛が立ち寄り座る座禅石、遥拝先の目印となる遥拝石を配している。当然ながら権現石や座禅石は神佛の通り道の下に配され、石々に個性があり、それぞれの石の色は明るい。この庭に借景山はなく、平等を強調した個性の無い黒い石を並べ、時代の風が提唱する自由平等、政教分離、若さ、無個性を表現している。日本のあちこちに見られる江戸庭園に似せているが、祈りを抜いたデザイン優先の現代庭は空の天と、松と松の間を抜ける風を見せるものが多い。天の下に風が吹く象意は易経「44天风姤」姤卦となる。その形は六人の立場や地位が異なる男性達が一丸となって力強く行動していたところに、一人の若く美しい、機転がきく魅力的な女性が一番下に入り込み、五人の男性達の一番下に若年女性がいる様相となり、それまで健やかで、人力を越えた力強い集団だったのに衰退し始めた様子を見せるものになっている。まるで大阪御堂筋に多くの美少女の裸婦像を立てたがために、御堂筋に陰気が入り込み始め、優良企業が御堂筋から次々と逃げ出し続けている様子と同じだ。今回は姤卦を学ぶことにした。姤卦は前回「継体天皇ゆかりの地」の記事で紹介した、益が満杯となり溢れ出る決壊寸前の象「43泽天夬」夬卦の次に位置し、夬卦を他人が見た姿に替えた綜卦となる。決した後には必ず思わぬ出会いがあることから、主に男女の出会いについて解説している。男女ともに何よりも大切なことは良い出会いを掴むことだが、良い出会いを掴めるかどうかは自分次第、縁次第と説いている。そして出会いは警戒すべき兆候だ。優良な教育を受けて育った箱入り娘も、いずれは外に出る。外に出れば思わぬ出会いがある。出会いは突然で、男女が求めあうことは自然現象なので、出会うと心に変化が生じる。良い人と出会えればラッキーだが、悪い人と出会うことは避けられない。付き合いが始まれば、できるだけ早くどのような相手なのか探り、付き合いを続けるか否かを決すべき。付き合い期間が長くなるほど別れるのは大変になる。しかし付き合い期間が長くなっても、付き合うべきではない事実を知ったら、すぐに蓋を閉めるようにして別れるべき。それでも別れることができなく、付き合いを続けていたとしても、相手が悪い人間だと判ったらすぐに分かれて損害を最小限に食い止めるべきだと説いている。男女の出会いは特別な場所で、お互いの挙動、時の感情で突発的に起きる。感情が絡んでいるので、その場で正確に相手のことを把握できる訳ではない。長い間、夢にまで見た出会いが突然、起きたので突き進む恐れがある。出会いの後、お互い長期的な視野で、自分は何がやりたいのか、自分には何ができるのかを考えた上で、次のステップへと進めなければならないのに、感情のまま期待を膨らませ続け、心を燃え上がらせ続け、二人の関係を進ませ続けると、冷静になった時に、期待外れの相手だったと深い悲しみに陥ることになる。順調に交際が続いた後で、秘密が暴露し関係を解消しなければならない事態ともなれば、巨大なエネルギーを使って解決しなければならないので、初期段階での調査が重要だ。男が女を口説くのは難しいが、女が男を追いかけることは極めて容易で、男が女の求めを拒むのも容易ではない。易経は貞節なき強い女を娶ってはならぬと忠告するも、そのような女を娶る男もいるため、絶対に娶っては駄目だとも断言していない。出会った後、どのように発展させるかは全て自分次第、良縁であれば出会ったチャンスを掴むべきであるが、悪縁なら避けるべきである。易経は追いかけて来る女は娶るなと忠告する。男の財力、地位などを見て追いかけてくる女は、男を食いつぶし、男から男へと渡り歩く女だ。他に更なる実力ある男を見つけると、すぐにその男へと去る。このような女は長期的な男女関係を持てない。姤卦は不貞の卦とも呼ばれる。女は貞操ある人生を捨て、自らを安っぽくし、腐敗行為に走ってしまうことができる。恋人同士ではない、ずるずるとした関係を作り、不毛な人生を過ごすこともできる。或いは自由奔放に多くの男と交わることもできる。姤卦は一番下の若い女が、上の5人の男と次から次へと不貞を働くことを警戒している。そのような誰とも結婚できない人生を選択するか否かは彼女次第である。男女の仲は自然現象なので、貞節を捨てドロドロとした世界の中にのめり込んでしまうのは極めて容易なこと、建設的な何かを生み出さない、エンドレスな色情世界に浸ってしまう人が多いのも世の中だ。伝統的な価値観を捨て一緒になった男女の仲は長続きしないと易経は忠告している。出会い後、慎重な考慮をせず、小説のような関係を進め、男女の仲となれば、すぐに色々な問題が浮上して来るのは当然のこと、すぐに二人の進路は遮られ、困難、苦難に陥ってしまう。理想的な夫婦の基本は、男は男らしく、女は女らしいことにある。実力があり品性と徳を持った男らしい男は賢く、恵みある、賢妻となる素質を持った女を選ぶ。結婚後は二人で助け合い、二人してやるべき事業を成功させる。女性の言葉は他人の心を動かす力があり、他人を感化できるので、賢妻は夫を公私共に助ける。このような理想的な夫婦の原点は夫が男らしい男か否かである。よって社会は男らしい男を育てる義務がある。今も封建時代の慣習が残り、男らしい男を作る社会システムがある。神輿を担ぐ祭りは男だけが参加でき、ふんどし姿の男達は皆で一丸となって荒っぽい神事を行い、男らしさを観客に見せる。女人禁制の修行場で荒行に取り組むのは男だけで、陽の男達が一丸となって陽の天の気と交わることに挑戦し、天の気つまり陽の気を持った男を作る。わずか80年前までは儒教の教え「男女7歳にして席を同じゅうせず」を守り、男女は別々の教室で学んだ。男は困窮に追い込んで厳しく鍛えること、女は豊かさの中で知育、体育、徳育を行いバランスとれた人材育成を行うことが封建時代の教育方針だった。集団スポーツで男女が一緒に練習すれば女性チームは強くなるが、男性チームは強くなれないことから見ても、男女共学は男を鍛えるのに適さない。男女共学の場合、女生徒の偏差値が男生徒より高いのも同じ理由ではないかと思う。日本では80年前に迎えたアメリカ軍の占領にてアメリカ流の男女平等教育となった。しかしながら男と女は本質が違う。男は男らしく、女は女らしく育ててこそ、健全な社会を作ることができるので、アメリカ以外の国では、遥か昔から男女別々に教育を行って来た。ローマ帝国の教育方針は「男らしさ、人間らしさ」だった。現在の男女平等教育の歴史は短く、今、世界中で男女平等教育が流行しているが、人間教育の本質を逸脱した教育方針だと思う。実力あり品性と徳を持った男らしい男が賢く、恵ある賢妻となる女を選ぶことで社会が発展するのだから、男女の教育は分けた方が良いと思う。姤卦は男女共に自分のことを理解してくれる伴侶を掴むことで幸せを掴むことができると教える。出会いが何時になるかは人によって違う。欲を出してはチャンスを逃してしまう。どのようなテレビ番組か忘れたが、確率的にこれまで出会った人の中で一番良い人だと見染めた人より、更に良い人が現れたら、その人を掴まえなければならない。それを掴まえなければ、それ以降、何人と出会っても理想の人を見つけ出すことなどできないと説明していた。一番目に見染めた人を選択するか、次に更に良い人と出会うのを待つのか、その人次第だが、良い出会いを掴むために最も大切なことは社会が男を男らしく育て、男女共に人間らしく育てることであり、思わぬ出会いを必要とする男女に必要なことは、男は男らしく、女は女らしく、共に人間らしく生きていることだと思った。