当寺のパンフレットによると「1268年(文永5年) 蘭渓道隆禅師が甲斐に配流された際、当寺に入り密教寺院から禅宗寺院として七堂伽藍が整備され、庭は蘭渓道隆禅師により作庭された」と説明されている。Wikipediaによると「1262年(弘長2年)に、配流されていた渡来僧の蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し寺号を東光寺と改める。」と説明されている。外壁の傍に建てられている山梨県・甲府市教育委員会の庭説明文にも「東光寺の中興開山道隆(大覚禅師=蘭渓道隆)の手になるものと推定され」と説明されている。1246年(寛元4年)南宋から来日した蘭渓道隆禅師が作庭したなら、来日16年目、或いは22年目に、南宋の庭様式を基に作庭したことになる。この庭には易経思想が強く潜在しているので、日本庭園に潜在する易経思想は中国から教えてもらったもの。その証拠の一つだ。日本庭園の最高峰、大名庭園は天、山、地、澤を明確に見せ易経「42風雷益(益する道)」の意味を潜在させている。風雷益の意味は「損が損で終わることはない。上が損して下を益することで組織が存続する。新たに生み出された益は上に還流される。支配者は善いと見た事に風のように従い、適時、雷のような決断をし組織を発展させなければならない」それを、大名庭園に語らせている。現在、庭はアラカシなど葉が密になる山野の樹木にて背後の道路を隠し、山を見えなくしているが、明治時代の建物配置図を見ると玉散らし剪定の行き届いたマツなどで幹と幹との間から借景山と空を見せていた。大名庭園と同じく天、山、地、澤を見せることで庭に易経「42風雷益」の意味を潜在させている。更に多くの石で龍を模り、龍が風と雷に乗り昇天する様子を画き、風雷益の意味をより強烈なものとしている。本堂、仏殿の薬師如来らが静岡の臨済寺を遥拝しているが、庭の中心石が特定できず、三尊石が設けられていないので遥拝庭ではない。当寺の説明書通り「龍門瀑」を登った鯉が、龍に化身するさまを表現し、座禅に適した平たい頭の石を連ね龍の骨組みを形成することで、純粋に臨済宗の世界を画いている。池庭に舟石があるので、対岸は南宋だ。対岸のゆるやかな築山の上辺には一定間隔を置いて白い縦線を持った石、白い斑点を持った石が置かれている。これらの石はそれぞれ蘭渓道隆禅師の師だろう。多くの師の教えが知恵の蓄積を意味する大海へと流れて来ている。大海に蓄積された臨済宗が日本を意味する此岸に流れて来る様子、そして日本から舟石が示す船にて臨済宗を学びに行く姿が画かれている。これらのことからこの庭は蘭渓道隆禅師が作庭したことに間違いないと思った。神佛の降臨庭として作られる江戸庭園の華やかさはないので、一見、日本庭園とは異質な庭に見えるが、枯山水で画いた枯水の湧き出し方、その付近の聖なる石の置き方、瀧の石組み、瀧水が一旦小さな池に入り、次に大海に流れ込むように見せる技巧。半島の突き出し形。これらすべてが日本庭園の技巧そのもの、日本庭園作りの教科書と言えるものになっている。蘭渓道隆禅師らにより南宋庭園の技巧が日本に入り、この庭が築庭された時期、日本庭園の技巧様式が完成したのではないかと思った。