方丈、庫裏、開山堂は北に放光寺、南に富士山頂上の剣ケ峯に向かって建っている。放光寺本堂と剣ケ峯を結ぶ神佛の通り道は、方丈-開山堂-立正寺境内-光源寺境内-鉢塚古墳を通過する。この神佛の通り道の両側には小さな寺社、釈迦ヶ岳があり、開山堂から南に伸びる参道はこの神佛の通り道に沿っているので、開山堂、方丈は富士山に宿る神々、遥拝線上にある寺社の神佛をストレートに迎え入れている。諏訪大社上社本宮の本殿と蘭渓道隆が鎌倉で最初に住持となった常楽寺を結ぶ神佛の通り道は、諏訪氏安国寺御廟所付近-安国禅寺-諏訪大社上社前宮本殿から80mの参道-当寺方丈庭園・開山堂-滝本院を通過する。この神佛の通り道両側には多数の寺社、古墳が点在する。甲斐駒ヶ岳頂上と徳川家霊廟のある増上寺本堂を結ぶ神佛の通り道は当寺参道を横切る。当寺には武田信玄の墓所、武田家家臣の墓約70基、柳沢吉保の廟所、柳沢吉保夫妻の墓、夢窓国師築庭の恵林寺庭園があるのに、神佛の通り道が少ないのが意外だった。鎮守の森のように大木となった多くのスギとヒノキがあるので、武田信玄の墓所にふさわしい重厚な雰囲気が境内に漂っている。ふと思ったが、武田信玄は神として祭られることを避け、神佛の通り道が少ない当寺を菩提寺に選んだのではないだろうか。神として祭られる徳川家康の霊廟とは対照的だ。富士山に宿る神々を受け入れる方丈庭園には武田信玄を偲べる特徴的なものが並べ置かれている。上下に白と青に塗られた築地塀から方丈に向かい、地を意識させる土を盛った半島が突き出ている。そこに天に昇る龍のように剪定されたマツがあり、マツに視線を向けると目は自ずと先端に向かう。そこには天がある。庭周りには風を感じさせるスギとヒノキ、そして天の気を反射させる開山堂の白壁、築地塀、白砂がある。地面を感じさせる苔面の半島上には富士山の神々が権現する権現石と石仏、石灯籠が置かれ、神の着座石が配されている。口が無いとも解釈されるクチナシが白い花を咲かせ、権現石の傍に縁起良いセンリョウが育っている。半島に向かって右側、白砂上には足元を照らす雪見灯籠と二つの石が置かれ、サルスベリが育っている。半島に向かって左側、剣状の葉を持つ植物が白砂から生え出ていて南国の島のような雰囲気を出している。アンテナを感じさせる石塔、その傍らに縁起良いマンリョウが育っている。更にその左にモッコク、ヒノキがあり、モッコクの傍の白砂上に石が一つ、背後には近年置かれたように見える巨大な鬼瓦があり、築地塀の外にイチョウの大木が育っている。庭中心は権現石で富士山から降臨した日本古来神を表現している。日本古来神は日本人の祖先であり、日本人に流れている血は神と同じである。権現石の右後ろに石仏を控えさせ、思索の基本は神と佛であることを示している。権現石の左側、方丈から見ると右側にある白砂を照らす石灯籠、更にその右側の雪見灯籠は発言や行動は公明正大であるべきことを示している。向かって左側の石塔で情報入手と発信の重要性、そして剣形の葉で武器を示している。武田信玄の思索の基本は神佛、発言と行動は公明性大、怠ることなく情報を入手し、常に武器を備えていた人だと読んだ。いくつかの樹木が天の気を反射する白砂面を貫き生え出ている。半島を隆起したように見せ、地下の強いエネルギーを感じさせている。これらと空の天、樹木が表現する風、龍形に剪定したマツで雷を連想させ、半島の地面、白壁や白砂が表現する天にて、神佛を中心に考慮し得た決断は人力の及ばぬ力があることを見せつけている。当寺にある信玄公宝物館の参観を通じ、武田信玄は織田信長、明智光秀以上に冷酷で洞察力に優れ、信長と光秀を自在に操っていたと感じた。