縮景園

平和祈願の庭

一見、大名庭園のように見えるが、大名庭園に流れているべき空気があまり感じられない。原爆による壊滅、おびただしい数の遺体が処理された地に大量の土を盛って作った築山が池を囲っている。大名庭園の雰囲気を残した慰霊・鎮魂の公園庭園のように感じた。庭は爆心地のすぐ近く、隣接して猿猴川が流れている。原爆により数多くの被災者がこの庭にたどり着き亡くなった。川を渡って逃げようとして水に入った人は全て亡くなった。この庭は広島市内中心部の遺体収容先として最適の場所にあるので、多くのトラックが遺体を運び込み、ここで火葬した事も記録されている。遺体で埋め尽くされた川から遺体を引き上げことも推測される。それらのことから庭園内のあちこちに積み上げられた莫大な数の遺体をここで焼き、いつ実施したか判らないが大量の土を搬入し庭に築山したことが推測できる。1987年(昭和62年)火葬されず埋葬された64柱の遺骨が発見され、その場所に慰霊碑が建立されたが、火葬後、そのままにされた莫大な遺体数は記録されていない。築山部分だけでなく庭全体にとてつもない遺灰が眠っていると思う。それら遺灰の慰霊碑は建立されていない。高い築山にて池は深く沈んでいるように見える。大きな心の池を築山が取り囲む心の庭となっている。心の池には深い悲しみが秘められていると思う。この公園庭園の美しさは大名庭園跡を利用したからではなく莫大な数の霊が眠っているからではないだろうか。巨木なクスノキとイチョウが林のようになっているのでよけいにそのように感じる。猿猴川に面する川岸のサクラ並木は春が来る度に慰霊に花を添える。池の北側、白龍泉(瀧口)、積翠巌(三尊石の石組み)、祠の側から池の対岸、南方向を眺めると、庭の樹木の上にビル群が見える。次々と建つ高層ビルにて風景は変貌を続けている。まるであの世から人が住む世界の変貌を見つめているような気になる。莫大な遺灰の埋葬地(彼岸)から人の住む世界をながめているからではないだろうか。積翠巌(三尊石の石組み)付近にはツツジ、アオキ、マンリョウ、ヒイラギ、カエデ、クロマツが植えられているので美しさが際立っている。複数の亀島が漣の効果で三尊石に向かい、こちら(彼岸)に向かい泳いで来るように見える。逆に池南側の超然居(ちょうぜんきょ)から白龍泉(瀧口)や積翠巌(三尊石の石組み)を眺めると此岸から彼岸を眺めることになる。亀島が三尊石に向かい泳いで行っているように見える。彼岸には美しい樹木が集中して植えられていることに加え、南から北を望むので樹木がより美しく見える。背後の川幅の広い猿猴川の流れの向きが庭の鑑賞方向にあるので、空が高く美しく見える。もともとの大名庭園の時には築山はほとんど無く、樹木と樹木の間から猿猴川と広島東照宮がある二葉山緑地とを借景にしていたのだが、築山にて猿猴川、二葉山緑地が隠されても、大名庭園に適した地勢に恵まれているので、太陽光に照らされた築山や樹木が映える。築山が大名庭園の時に見えていた借景を隠しただけでなく、清風館は角度を少し変え大名庭園の遥拝部分を消したように思える。広島城天守閣は島根県出雲市の須佐神社を遥拝する向きに建てられている。広島城の地割、城下の町割りも略その方角となっている。本庭園の西側の直線道も略、須佐神社の方角に伸びているので、清風館も同じように須佐神社を遥拝する向きに建てられていたように思う。広島城天守閣及び掘りに沿って西北に線を延ばすと毛利輝元が築城した倭城、釜山鎮支城跡(現 子城台公園)に到達する。清風館が遥拝先にピッタリと合っていないことで、須佐神社を遥拝する庭ではなくなった気がする。超然居も方向を変え再建されたように思う。超然居は広島東照宮を遥拝するに適した位置にある。原爆被災前の築山がなかった頃は超然居から猿猴川、二葉山緑地が見え、広島東照宮を遥拝していたはずだが、超然居も向きを変えて広島東照宮への遥拝を消したように思える。もっとも戦後、たくさんのビルが建ち築山がなくとも二葉山緑地は見えなくなったが、庭に隣接する猿猴川は見える。清風館、超然居が方向を変えたたことで、須佐神社・広島東照宮遥拝が消され、遥拝庭園ではなくなったように思う。グーグル地図上で清風館西側の直線の流川に沿って線を引き北に延ばすと出雲大社に至る。その線上近くに白龍泉(瀧口)や積翠巌(三尊石の石組み)がある。この構成により出雲大社から送られてきた聖なる気を、瀧口や三尊石を通し庭園内に充満させる構造は残っている。瀧口、泉の背後、築山上には明月亭があり、その周囲の樹木が大きくなり過ぎないよう剪定してあるので、明月亭部分の空が開き、その両側は鶴が羽を広げたように大木群が広がっている。その開いた部分の青空が池に反射している。この構成は美しいし、出雲大社の聖なる気を自然に意識させ、庭に取り込む構図となっている。庭内の流川が残されたこと、築山上の明月亭付近の樹木を剪定していることで、流川に沿って見る部分において大名庭園の雰囲気が呼び戻されている。祠のある祺福山付近の植物構成は庭の他の場所と異なっている。祠周囲にはカクレミノ、ヤブツバキ、クロバイ、ヒイラギ、ウラジロガシ、そして山で見られる常緑広葉樹が植えられている。神が住む山の雰囲気を持っている。祠に神は祀られていないので、この庭の慰霊の場に見える。標高約10mの迎暉峰(げいきほう)付近から西の池を望むと、心字池がすり鉢状の窪地の中にあるようで心に沁みるものがある。庭園が借景としている高層マンションが心字池をより深いものに見せている。通常、現代風の建物と江戸時代の庭園とは相性が良くない。ここは非常に相性が良ので、すでに大名庭園ではなく現代庭園だと言い切れると思う。高層マンションが白色系なので庭の緑が映えている。池の水面には庭の緑と青空のみが映っている。迎暉峰の背後(東側)は竹林となっている。風が吹けば鑑賞者の心を揺り動かすことだろう。スギもあった。被災前の迎暉峰は今ほど標高が高くなかったはずだ。と言うよりもとは庭の他の部分と高度差がほとんど無かったのではないだろうか。タケは植えていなかったはずだ。庭全体を見渡して江戸五木(モッコク、アカマツ、イトヒバ、カヤ、イヌマキ)が植えられている気がしない。植えられているのかも知れないが気が付かない。江戸五木が目につかない効果で垢抜けした近代的公園の雰囲気となったのかも知れない。築山上に庭石をほとんど置いていないのも公園化された理由の一つだと思う。1620年(元和6年)広島藩初代藩主 浅野長晟(1586年~1632年)」が別邸として起工、最初に庭を作ったのは上田宗箇(1563年~1650年)だが、上田宗箇の作風は残っていない。1758年(宝暦8年)広島大火災で全焼した庭を、1783年(天明3年)7代藩主 浅野重晟(1743年~1814年)」が改修工事を開始。清水七郎右衛門が新作に近い大改修を行い1788年(天明8年)完成させた。積翠岩は清水七郎右衛門による改修とされている。その後1830年(文政13年)8代藩主 浅野斉賢永(1773年~1831年)」が大改修を行った。1945年(昭和20年)原爆により壊滅的な被害を受けた。被爆直後、清風館があった場所から跨虹橋方面を撮影した写真を見ると、祺福山などの築山はもともと無く、迎暉峰が庭に有ったのかと思えるほどに二葉山緑地がよく見えている。そして焼けた樹木の幹の根本あたりに猿猴川が見えている。広島城及び城下町は中州にある。広島県は水害の多い地域なので、広島藩にとって治水が最も重要な事業だった。池は猿猴川から引き入れた水で満たされ流川を通って城下町へと流れていく。猿猴川、池、流川を見せ、広島藩は水をコントロールしていること、藩にとって一番大切な事業は治水であることを表現していた。猿猴川と二葉山を見せる借景庭園なので見通しが良い庭だった。よって藩民から「泉水屋敷」で過ごす藩主の様子が良く見え、藩主と藩民との一体感を生む屋敷(庭)だった。つまりは藩主と藩民との良好な関係を形にした封建時代の象徴的な大名庭園だった。日清戦争時、明治天皇は227日間も広島大本営(広島城)で作戦指揮を執られたが、広島大本営跡から当園までわずか600m程しか離れていない散歩コースの近さのこの庭にたった一回しか行幸されていない。明治政府の政治目標は封建制度の徹底破壊だったので、一回のみの行幸が封建時代を代表する庭であったことの証拠だと思う。原爆により庭が壊滅し、被災遺体の焼却場、遺灰の埋設場となったことで、ここには封建時代終結の犠牲となった莫大な数の人々の霊が眠る地になった。霊が眠る築山を崩し、もとの大名庭園の姿に戻すようなことはとてもできないと思う。ここは封建時代の完全終結の場である。新しい時代に生きる我々が平和祈願するべき庭である思う。