やっと織田信雄自身が築庭したとも伝わる庭を訪れることが出来た。天、山、地、沢を見せる典型的な大名庭園だが、他とは違い、三尊石らしきものがなく神への祈りの庭となっていない。考察にあたり先ずは建屋の向きを調べた。梅の茶屋は富士山頂上、淺間大社奧宮久須志神社の方向に向き、富士山を遥拝している。正方形の梅の茶屋の対角線を西南方向に伸ばすと織田信雄のもう一つの領地、宇陀松山藩陣屋跡に到達した。別の対角線を西北方向に伸ばすと草津白根山頂上に至った。梅の茶屋すぐ下にある5角形の腰掛茶屋の1辺を西南に伸ばすと梅の茶屋と同じく宇陀松山藩陣屋跡に到達した。他のそれぞれの1辺を伸ばすと韓国桐華寺、小幡藩江戸屋敷を指していると思える江戸城方面、久能山東照宮、当地の信仰山・天狗山頂上に至った。梅の茶屋と腰掛茶屋の屋根が指し示す方向から織田信雄は一族を深く思いやり、源氏の聖地と当地の信仰山に敬意を示し、徳川家、幕府、当地の民に気を使っていたことが伺えた。庭の北側、藩邸跡の区画線を南に伸ばすと昆明池庭が借景にしている熊倉山頂上に至った。熊倉山は当地の聖山ではないので、昆明池庭は藩邸から昆明池、築山、その先の熊倉山を楽しむ構成で、聖地を遥拝するための庭でないと判定できた。神を迎える庭でなければ、織田信雄その人を偲ぶための庭だ。織田信雄は第二次天正伊賀の乱の総大将、5万人の大軍勢で伊賀に侵攻、大量虐殺を行い、最後は柏原城を攻めた。柏原城と宇陀松山藩陣屋跡は直線距離わずか18.5㎞、宇陀松山藩陣屋跡の西側の山を越えると奈良盆地、神体山三輪山頂上まで直線距離8.5㎞、このことから芝面の築山は奈良の若草山、古墳、伊賀の山々を象徴的に画いたものだと読んだ。瀧口近くの飛び石エリアは起伏が大きく伊賀山中の雰囲気となっている。築山背後には多くのマツが植えられ爽やかさがある。築山と築山の間に瀧口があり、瀧を伝い清流水が池に注がれている。瀧の清流片側の築山には石が置かれず芝面を強調、もう片側の築山には戦乱にて焼けたような茶黒い色をした石を多く置き、瀧を圧迫している。瀧口上部に庭中心石群が控えている。焼けたような石々は神が宿る石には見えず伊賀住民の三分の一を殺害し、村や寺を焼いた織田軍に見える。清流すら血が流れているように見えてしまう。池の水面にはなぜかイノシシのような石がある。瀧に向かう亀島があり、土橋が亀島に架かっている。亀島の護岸石、亀島上には白い模様を付けた頭が平たい石が多く使われている。芝生を多用した明るい庭であるが、焼けたような茶黒い石を多用しているせいか、織田信雄の心の闇を画いているように感じてしまう。織田信雄はスマートな父、信長、スマートな兄、信忠を持ち、同じようにスマートな人生を送りたかったはずだが、人生はそうならなかった。父の指示で北畠家に養子に出された。北畠軍を率い水軍として第三次長島侵攻に参戦、長島一向一揆勢3万人以上の虐殺に加担した。養子先の養祖父、北畠具教が信長に従わず反旗を翻そうとしたので、信長は信雄に北畠具教やその子供たちをだまし討ちさせた。信長の命令でいくつかの戦いに参戦した結果、遠征に疲れ、勝手に第一次伊賀の乱を起こし大惨敗、信長から大叱責を受けた。自らが総大将となった第二次伊賀の乱では3万人以上を虐殺した。本能寺の変後、100万石を相続するも、小牧・長久手の戦いで領地を減らし、ついには秀吉からすべての領地を取り上げられた。時代に翻弄されたような時を経て、大坂の陣直前に大坂城を去り、大坂の陣の直後、宇陀松山藩、小幡藩など計5万石を徳川家康から拝受、現在まで続く織田家の基礎を作った。日の当たる芝面で表現された表舞台、そこに置かれた多くの焦げたような茶黒い石。黒い闇を引きずって時代の表舞台を突き進んだ織田信雄、その人生が庭に画かれている。庭の祈りの対象は神でなく、織田信雄その人であり、或いは織田信雄が殺害した多くの人々である。それらのことから織田信雄は深い罪の意識を持っていたことが推測できる。罪の意識を持てる普通の人だったので、引き継いだ織田信長の直系を途絶えさせることなく、現在につなげることができたのだろう。