勧修寺

純真な女心を画いた池庭

真東の宸殿前は白砂面ではなく芝面となっている。比較的背の高い木々の上に醍醐の山々が見える。山を美しく見せる為か、山々に向かって左側に背の高いイチョウがある。芝生上の左側に低木樹木のハイビヤクシンと普通の樹木とを組み合わせたものを配している。これらは借景の醍醐の山々をより高く見せるための工夫だと思う。明らかに昇る太陽と月を楽しむ遥拝前庭だ。大覚寺、仁和寺の宸殿前のように白砂面であれば親王の発する言葉を万民に伝えようとする宸殿に見えるが、ここは緑の芝面なので、親王の発する言葉は優しく、特定者のみに言葉を伝える宸殿に見える。そこで宸殿の向く先を調べると駿府城天守閣があった。徳川幕府の象徴とも言える駿府城天守閣を遥拝し言葉は徳川幕府にのみ伝える宸殿だと読み取れた。勧修寺(かじゅうじ)の宸殿、書院、本堂、庫裏など1682年(天和2年)頃、再建された建屋すべて、東は駿府城天守台、南は熊野那智大社に向いている。建屋群全体で東は駿府城、南は熊野那智大社を遥拝している。勧修寺型灯籠と樹齢750年のハイビャクシンで有名な書院前庭の先にも芝面があり、更にその先に氷室の池を中心とした熊野那智大社遥拝庭が展開している。氷室の池の中には三つの島(集仙島、方壷島、緑鴨州)があり、目立った築山や石組みはなく、石は主に護岸用に使っている。池周囲を歩くと泉(瀧)部分の跡地、石橋、石が池に突き出した所も有るが、樹木で鬱蒼としているせいか石が目立っていない。緑鴨州に四角い石碑のようなものが立てている以外、石組みが控えめなので、庭が鑑賞者に迫って来るということもない。現在は庭を取り囲む樹木が大きくなり、住宅など建屋も多く見えるので、借景としていた山々が余り見えなくなっているが、山々が良く見えた頃は今以上に伸び伸びとしていたことだろう。今も宸殿前、そして書院と池との間に広い芝面があり、空を広く感じさせ、池に鯉が泳ぎ、いろいろな鳥が棲家としているので、草食動物が水を飲むために集まる池のような優しさがある。池にスイレンが花を開かせている。観音堂の正面が池に面していないので浄土式庭園でもなく、佛教色を庭池に大きく持ち込まない工夫もされている。醍醐天皇後山科陵と(大山)大神山神社奥宮を線で結ぶと、線は庭池の集仙島、そして伏見稲荷大社境内を通過する。(醍醐天皇の父)宇多天皇大内山陵と醍醐寺とを線で結ぶと竜安寺内 後冷泉天皇圓教寺陵、豊国神社境内、智積院境内、そして庭池の方壷島を通過する。(醍醐天皇の息子)村上天皇村上陵と醍醐寺五重の塔と線で結ぶと、妙心寺、泉涌寺境内、そして庭池の集仙島を通過する。曼殊院弁天堂・天満宮と熊野那智大社とを線で結ぶと庭池の二つの島(集仙島、方壷島)を通過する。大覚寺宸殿と豊受大神宮(伊勢神宮外宮)とを線で結ぶと東福寺開山堂、庭池の方壷島を通過する。西本願寺御影堂と伊勢神宮内宮とを線で結ぶと泉涌寺南側の陵墓、庭池の緑鴨州を通過する。銀閣と春日大社とを線で結ぶと庭池の緑鴨州を通過する。比叡山延暦寺と高野山金剛峯寺とを線で結ぶと庭池の方壷島を通過する。このように日本の神々、及び如来・菩薩が行きかう途中に庭池があり、神々らが池庭で遊ぶ意が込められている。緑鴨州に橋が架けられていないのはそのためだと思う。遥拝線が集合する所を選んで作った庭池なので、将来にわたっても潰されることは無いと思った。尚、(醍醐天皇のもう一人の息子)朱雀天皇醍醐陵と大覚寺とを線で結ぶと当寺境内と西本願寺を通過した。900年(昌泰3年)勧修寺は醍醐天皇が生母藤原胤子の追善のため創建した。醍醐天皇陵は当寺から東南東約1㎞の位置にある。勧修寺は栄枯盛衰を繰り返している。南北朝時代、門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。当時、当地一帯を領するほか、各地に広大な寺領(加賀国郡家荘、三河、備前など18か荘)をもっていたが、応仁・文明の乱(1467年~1477年)で焼失・荒廃した。豊臣秀吉が衰退していた勧修寺境内中央に伏見桃山城につながる伏見道を設け、境内を南北に分断し南側の地を勧修寺の境内から外した。徳川家康も衰退政策を取った。河内源氏による公家(藤原氏)弱体化政策だろう。江戸時代、1682年(天和2年)霊元天皇皇子の済深法親王が入寺してから再興が始まった。次いで30世となった尊孝法親王の叔母(真宮理子)が徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊の約100か寺が勧修寺の末寺となった。深読みすると徳川宗家が紀州藩内の情報収集のために勧修寺を活用したことになる。佛教寺院は徳川幕府の情報機関だったので明治政府は当然のように神仏分離の名の下、廃仏毀釈運動を起こした。明治以降、真言宗各派は対立と分派・合同を繰り返した。1872年~1881年(明治5年~14年)勧修寺内の一部が勧修小学校として使用された。1907年(明治40年)勧修寺は山階派本山となった。第2次世界大戦中、宮中から移築した建物が陸軍病院の分院として使われ、境内はサツマイモ畑やレンコン畑にされてしまった。第2次大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、1952年(昭和27年)に再度、山階派として独立した。1963年(昭和38年)名神高速道路が開通。敷地の北側から西側にかけて高速道路が脇を通り、景観が損なわれ、ひどい騒音発生源となった。緑化による景観対策、防音対策は取られているが完璧ではない。それでも庭池が潰されないのは神がかり的な言い方になるが神々のご加護があるからだろう。勧修寺は宮道弥益の邸宅跡で、藤原北家の流れを汲む藤原高藤が鷹狩のため当地に来た際、雨宿りのため、たまたま通りがかった宮道弥益邸を訪れ、勧められるままに1泊した地である。高藤は弥益の娘(列子)に一目ぼれし、一夜の契りを結んだ。翌日、帰宅が遅れた高藤の父・良門は激怒し、高藤が鷹狩に行くことを厳禁した。高藤と列子は音信不通となった。6年後、高藤はようやく列子と再会する。列子には高藤にそっくりな娘がいた。この娘が後に宇多天皇の女御、醍醐天皇の生母ともなった藤原胤子である。この庭は高藤の「他の男に従うな」という言葉を素直に、従順に守った列子の女性美を画いたものだと気付いた。空が広く、伸び伸びとした池と緑の芝面で純真な女心を表現している。