掘り込み庭 旧中西家住宅 吹田市
勝手口から入るとすぐに「東の庭園」があり、四角い掘り込みが迫ってくる。一歩一歩進むごとに掘り込みの底が視野の中に広がる。当庭園は「東の庭園」と「西の庭園」からなり、東西両庭園共に新たな美を求めようとする意志に満ちている。「東の庭園」を取り囲む建屋群は四角を組み合わせたデザイン、長屋門の白壁などが美しい伝統的な日本家屋群、その建屋群に囲まれた四角の地割の中に、女の庭と男の庭がある。(陰の庭)女の庭には四角い掘り込みがあり、掘り込みを取り囲むようにしてカエデ、サクラなどの落葉樹と背の低い常緑樹が植えられている。(陽の庭)男の庭は太陽光を反射させる白砂面に11個の石が置かれている。陰陽の庭を横並びにした庭は斬新という訳でない。滋賀県長浜市 孤篷庵(こほうあん)では向かって左に池・井戸と幹が二股となっている樹木群でまとめた(陰)女の庭を、向かって右にコケ面と幹が1本だけの樹木群でまとめた(陽)男の庭を配置し、書院内から男女(陰陽)の庭を一緒に見せ、男女について考えさせられる庭があった。インドの公園やホテルの庭では池(陰)と芝面(陽)とを組み合わせた庭、或いはプール(陰)と芝面(陽)を組み合わせた陰陽表現の庭があった。インドの太陽光は激しいのでシンプルな陰陽庭が美しい。それらの庭と比較し、この庭の斬新なところは陰陽(女男)両方の庭が四角い地割となっていて、女の庭には四角い深い掘り込み、直線の谷、四角い井戸、階段に長四角の石を、男の庭には四角い白砂面を、その両方の庭の境の直線道に長四角の切石を敷いたところにある。四角と直線を多用したシンプルな構成美に新鮮さがある。陰陽の境を歩かせる伝統的技法も冴えている。日差しが強くなれば、白砂面は太陽光を強く反射し、深い掘り込みの日陰は奥ゆかしくなる。月夜は白砂全面がほんのりと明るく、掘り込みは真っ暗闇の中に沈む。光の強弱によって男女(陰陽)の関係が単純に変化するシンプルさが斬新だ。玄関棟の傍、(主屋の玄関前)に蹲踞と石灯籠で構成された小さな露地庭がある。どこかの伝統的な露地庭の一部を切り取って来てさりげなく置いたような四角い小さな庭である。この小さな四角い庭は白砂面に隣接しているので可憐で綺麗に見える。屋敷内には冷暖房が完備された現代風のガラス窓の茶室があり、ガラス窓を通しヤマボウシ、マツ、ヤブツバキ、ワビスケなど露地の定番樹木を楽しめるようになっている。足立美術館のような構成だ。「女の庭」のサクラとカエデが伸び伸びと育っている。武士階級に遠慮せず思う存分サクラの花見が楽しめ、カエデの若葉と紅葉がたのしめるようになっている。身分制度の厳しかった封建時代から解放された喜びに満ちている。長屋門(正面)入り口付近は一般的な庭と同様、花木が来客者を出迎えるよう多数の花木が植えられていた。「西の庭園」に入ると直ぐに腰掛待合がある。腰掛待合から茶室への飛び石は大曲に打ってある。東の庭園とは異なりこちらは曲線を多用した庭園だ。腰掛待合に座って茶室「喜雨庵」を見ると、茶室との間にシラカシの大刈込がある。私は茶道経験が無いので判断付かないが、農家の生け垣で使うようなシラカシの大刈込で露地を区切ることは珍しいことではないのだろうか。そして、ナンテンとサツキがあり、足元にツワブキが植えられている。露地の外側「東の庭園」に植えられているサクラの枝が露地の上に伸びて茶室の屋根の上に被っている。露地にはシダレザクラが植えられている。この露地の植物構成は伝統的な露地と大きく異なると思う。一番の驚きが茶室の西南側に2~3本のクスノキが大きく育てられていること。西日をクスノキの大木にて遮ることができるが、神社の森に使われ、とてつもない大木のクスノキを普通の覚悟で露地内に植えることなどできないはずだ。露地内にシダレサクラ、ナンテン、シラカシ、更にサツキの小さな丸刈り、足元にツワブキ、露地の端にクスノキ、深山世界を追及してきた茶室付近にこれら木々を植えることは封建的な茶道と決別しようとする意志があってのことだと思う。サクラの花が散ることと封建時代の伝統が散ることを掛け合わせているようにも感じる。京都「無鄰菴」の庭の母屋近く、茶室からそう遠くないところにクスノキが有った。そのクスノキの枝は思い切り掃われてはいたが、豪快な太い幹を見せていた。「岸和田五風荘」庭園内の神社の近く、ガラス張りの茶室「山亭」からそう遠くないところのクスノキも鎮守の森の中心となっていた。「旧辻元家住宅(がんこ平野郷屋敷)」内の神社にもクスノキの大木が2本、西北の門外側にもクスノキがあった。これらの庭は共に新しい時代の庭だ。当住宅の庭も同じく新しい時代の庭を目指しクスノキを植えたのだろう。クスノキは大木になるので広い庭でないと育て切れない。降臨した神を見守る木であるので個人邸宅の庭に植えるものでないと思う。しかしクスノキにて庭は軽やかになっている。サクラ同様に魔物が住む木なのかも知れない。「西の庭園」の露地部分に軽やかな樹木を植え、茶室に軽やかな雰囲気を持たせ、軽やかな茶会を楽しもう、新しい茶会を開こう、新しい文化を作ろう、そのような意気込みを感じる。「西の庭園」にも掘り込みが多用されている。小山のようにした築山もある。その山頂の四阿(東屋)に至る道にはいろいろな樹木が植えられていた。樹木を楽しむ近代的な庭でもある。この屋敷の「東西の庭園」は、封建時代と決別し、近代文化を作ろうとしている。「東の庭園」の広い白砂面も軽やかだった。封建時代に庄屋の身分で白砂庭を所有することなどもっての外だったはず。封建時代に公の庭にしか敷けなかったはずの白砂に家族を表現した11個の石を並べたこと、もし封建時代にこのような庭を作れば重罰が課せられたはず。封建時代を打破する表現をしたことは素晴らしいと思う。当住宅の「東西の庭園」は共に封建時代における身分制度による文化抑圧の反動が源にあると思う。その反動と反骨精神がこの庭を作らせたのだと思う。当屋敷は封建時代の経済の基本である年貢米を扱っていた。その年貢米を計量する場の半分を深く掘り込み、半分に白砂を敷いた。封建時代の旧家屋が現存する封建実行現場に、庄屋の身分で造れなかった庭を造り、大名しか使えないような石を使ったたこと。正に封建時代の文化に対する告発だ。封建時代の身分制度が武士階級以外の人々の心にたいへんな重荷になっていたことの証明だ。明治時代以降、東京の大名庭園は公園に変えられた。しかし武家が作った美しい京都の庭、地方の庭は残された。それに比し武家が作った以外の庭はほとんど残っていない。それは武家が作った以外の庭がそれほど美しくなかったからだと思う。武家以外の階層に対する文化抑制が厳しかったからだと思う。この庭は封建時代の文化と格闘して作られた。その結果、このような美しい庭が完成したと感じた。