殿ヶ谷戸庭園(2)次郎弁天池

易経「4山水蒙」蒙卦

国分寺段丘崖と、丘陵端の湧き水を使った庭園。前回の記事では紅葉亭の茶室近くの鹿おどしの景観が易経「3水雷屯」屯卦、創生の苦闘を表現していることを述べ、屯卦の教えを書き出した。今回の記事では地下水が湧き出す次郎弁天池が易経「4山水蒙」蒙卦、啓蒙教育を表現していることから、創生の苦闘を乗り越えて生まれた子が受けるべき童蒙教育について書出すことにした。止まったように見える山には潜在能力を秘めた地下水が隠れている。水は山に浸み込み、期を見て山から浸み出し、低い方向へと流れ続ける能力を持つ。浸み出す所に霧が発生し、はっきりしない情景が生まれる。山の下には危険が付きもの、山は前進を阻止し、水は困難をもたらす。山と水が引き起こす蒙昧な状態は水が発展し始める時に起きるので、智恵が回らない発展開始時には動きを止め、急いで学ばなければならないと説く。湧き水は無邪気だが、育てば変化する。啓蒙教育を受け、真っ直ぐに流れ出せば有益な沢水になり、やがては巨大エネルギーを持つ大河になり、大海へと流れて行く。ものごとの開始時に適切な教育を受けなければ収拾がつかないことになってしまう。「蒙」とは知識が無い、無知な生まれたばかりの赤子状態。蒙卦が求める「蒙以养正」とは適切な教育は何も知らない幼子の時から始めるべきだが、童蒙教育は幼い時の一時的なことだけではなく、人は大人になっても完全な智恵を持てず、自己過信にて騙されることがあり、騙されれば素直に学ぼうとする。生涯にわたり正しい世界観、人生観、価値観を素直に学び続け、先見性と洞察力を養い続け、人生経験と学んだことを結び付けるべきだと教える。企業人が新規事業を始めるには先ずは専門的なものを学び、学んだ事業内容から将来の自己や企業の理想的な姿を画き、未来の姿、展望、目標を画き、計画し、実行することになる。判断力を養い、実践を重ね事業が軌道に乗れば市況を掌握し、競合他社の動きを観察することになるが、基本は学びを通じての自己能力の向上、蒙から脱していないと自らに言い続け、事業の専門について学び続け、正確な判断が下し続けられるように努めることになる。企業合併については、両社の間に蒙昧な所があればうまく行くはずがなく、片方の会社が相手会社の一部だけを奪い取るつもりならば、共同で何かを作り出せるはずがなく、うまく行くはずがない。本来、水は困難の象徴であるが、泉から湧き出た霧雨のような蒙水が、教育にて真っ直ぐ正しく流れ出れば、有益な水になる。水は万物を育てる潜在能力を持ち、貯められ農業用水に、化学工場では色々な原料を作り出し、汚染物質を洗い流す。蒙水のような生まれたばかりの赤子は生きる力、潜在能力を保持しているので、教師は水を粗末にしない心がけを持ち啓蒙教育を施し、貯めた水を一気に流し氾濫を起すことをせず、節水を心掛け、水を扱うように指導を行う。教師は学費を払った学生を自己意思で学ぶ者だと見なす。素直に主動的に学ぶ徳ある学生には学習効果が上がる。教堂は学生の山、宝の山で、教師はたくさんの学生の中から優秀で素直な者を見つけ出し、素直に積極的に学ぶ学生に集中して啓蒙教育を行い、全学生のレベルを引き上げる。被動的な学生には教育効果が上がらない。教育現場での主役は学生、脇役は教師。学生は山のように止まったままの現状維持を好むが、止まったままでは進歩しない。よって山から下り、下に居る教師の所にやって来て、教えを請う。或いは教師は学生の求めに応じ教堂に行き教える。学びは本人が主体なので、安易に教師に疑問をぶつけ、教えを請うのではなく、自ら教科書や資料を読み、考察を行い、同級生らと質疑応答を経て、それでも答えが出なかった場合にのみ教師に教えを請う。学習効果は学生と教師が一体になった時にのみ上がるので、教師は学ぶことを求めて来た学生に対し、わかりやすく教える。幾度も同じことを聞きに来る学生に対しては熱心に学ぶ気がないと判断し、突き放し、再度、自分で教科書や資料を探して読み、自己考察を行い、同級生らと質疑応答を経た上で聞きにくるように指導し、学生の能動性を向上させる。学生自身が興味を持ったことのみ学びが深まるので、どこまでも学生自身が学びの主体だ。学生に興味の無いことを教えても、学生の理解力を越えたことを教えても意味が無く、教え過ぎは学生が学習を苦役と受け取り、学ぶ意思を失ってしまう。よって教師は学生が主導的、積極的に学ぶように仕向けなければならない。学びは学生と教師の共同作業であり、その結果、教育効果が上がる。学生が持つべきは「主見力」「判断力」「実践力」、そして自らが変わらなければ学べないことが多い。蒙卦は3種類のタイプの教師を紹介している。一人目は創造的な教師で、普段は教堂の外に居り求めに応じ教堂に入る。教えるタイミングを大切にし、創造的なことを述べ学生を啓発する。話は少ないが言行一致、法と規則に従い、学問を追求する正道を歩く姿を学生に見せるも、時にはそのスタイルを脱ぎ捨て、変わり者になり、型の中にいては創造的なことはできないことを体で見せる。模範になるのではなく、学生に興味をもたせるように務め、決して権威、権力、勢いで教えず、教え過ぎをせず、学生が気付かないうちに良い影響を与える。積極的に教えることをしないが、学生の学ぶ速度が上がり、従来の教えに新たな生命を吹き込むような、新しいものを開く力を育てる。二人目は教師陣の中心にて、蒙童つまり無智で頭が混乱した状態の学生に囲まれている。指導者としての力量があるので、学生はその教師から何から何まで学ぼうと接する。厳格だが親和性あり、模範学生と心を通わせ、多くの学生から教えを請われ学生全体を導き、教堂は家庭的な雰囲気に包まれている。その教師から薫陶を受けた学生は卒業後、社会の伝統を引き継ぎ、新たなものを生み出す。三人目はこんな女は娶れないと評される、より多くの金を持つ男を追いかけ続け、金の切れ目は縁の切れ目と割り切り、次々と男を乗り変えるような姿勢の教師。資産家で高い地位を持つ親にはぺこぺこし、学生の将来性を計り、将来性が期待できる特定の学生だけに特別教育を施し、教える内容を変える。このような教師は教師の本分を捨て去っているので、学生が学び得る物は無い。学習効果を急ぐ教え方、度を越した教え方、誤解を招く教え方では教えが身に付くはずがない。こんな教師を相手にする学生は軽率である。蒙卦は3種類のタイプの学生を紹介している。一人目は学生になったばかりで、自分が何を学ぶべきなのか判っていない学生。二人目は自分が蒙の中に居ることが判っており、学ぶべきことを知っており、チャンスを掴み自分が知らないことを学び続ける聡明な学生。三人目はより良い教師を見つけ出し、目を覚醒させ高レベルのことを学ぶ学生。修行僧もこの三段階の学びを経て高僧になるので、学びとはこのようなものなのだろう。学びは、自分を変えるほどに素直に教えを受け容れる徳を持たなければならず、虚心でなければならず、理解できないことを噛み砕き明らかにする才が必要で、学ぶことで徳才を養うことができる。企業家は頭に徳を持ち、事業展開することで社会に危害を加えることを避け、次に才で事業展開することで困難から脱却でき、事業発展のための正確な判断を下すことができる。徳才兼備していない利益優先企業は自己崩壊リスクを抱えている。次郎弁天池から上を見上げると天の上に雲があり、その姿は「5水天需」需卦、啓蒙されると、次には次々と学びたい需要が出てくる。やがて自らを満足させられないほどの学びの需要が湧き出てくる。需要の恐ろしさ、欲の恐ろしさを説く。再び紅葉亭に戻り、次郎弁天池を覗き見ると、まるで天から水を見ているような「6天水讼」訟卦の形が見える。待ちきれないほど湧き出す需要や欲に対し、満たされるのを待たずに進めば争いになる。そして進む方向が真逆の者同士が争うことの無意味さを説く。殿ヶ谷戸庭園は地下水脈を持つ台地にあり全体が「7地水师」師卦の形であり、戦争景気を追いかけていた時代にできた庭園だからか、争い続け結論が出なければ戦いになることを感じさせる雰囲気を漂わせている。そして最初の庭鑑賞地点、本館に戻り水を含んだようなつやのある芝生を望むと「8水地比」比卦を連想させる。戦いの次に来るのは外交、芝面は調和の姿だ。このように殿ヶ谷戸庭園は易経1番の乾卦から8番の比卦までのドラマを画いている。おそらく易経の大先生の指導で作られた庭なのだろう。