岩村城

織田信長の躍進(14)

信長は岩村城を手に入れるまで長い年月を費やした。1572年(元亀3年)信長より一回りほど年下の(美人叔母)おつやの方の裏切りにもあった。1575年(天正3年)長篠の戦いで弱体化した武田氏の隙をつき信忠とその副将、河尻秀隆に5ヶ月にわたり岩村城を攻城させ城を手に入れると、真っ先におつやの方と(夫)秋山虎繁、他3名を捕らえ残酷な逆さ磔の刑に処し見せしめた。そして河尻秀隆に岩村城の大改築を行わせた。信長が縄張りした城らしく、登城口から大手門まで折れ直線の石畳が続く。両側に住む家来たちが何時でも飛び出せ、登城口付近の広場に集合しやすい構造で、機動性を重視している。城内に多くの井戸があり水に恵まれ、雨が降ると石畳に沿って水が流れるほど排水性も良く長期籠城しても伝染病発生の恐れがない良い城だ。1582年(天正10年2月)信忠は織田軍5万の総大将として武田領に侵攻、3月11日、天目山の戦いに勝利し甲州征伐を完了させた。信長は3月5日安土城を出発、3月11日、明智光秀ら6万を率い岩村城に到着、13日に勝利の報告を聞き岩村城を出発、翌14日、浪合で武田勝頼父子の首実検、3月21日に諏訪に到着、23日と29日に甲州征伐参加諸将に論功行賞を発表した。信忠の部下には広い領地を分け与えたが、信忠には領地を分けなかった。信忠は大きな不満を抱いた。しかしながら6月2日(陽暦6月21日)本能寺の変による政変で、甲州征伐に参戦した織田の諸将で新たな領地を賜った者の領地はすべて消失した。特に広大な領地を分け与えられた河尻秀隆、滝川一益は悲惨な目にあった。河尻秀隆は(穴山梅雪本貫地を除く)甲斐一国、(穴山替地)諏訪郡を拝領するも、本能寺の変直後に国人一揆が勃発、瞬く間に徳川家康の甲斐横領策に負け自害。徳川は甲斐に進出してきた北条を排除し領地とした。天目山の戦いで武田勝頼を討ち取った滝川一益は上野一国、小県郡・佐久郡を拝領するも、本能寺の変直後に反乱が起き、次いで進軍してきた北条氏に敗退した。信濃は北条、上杉、徳川の三つ巴の勢力争いとなるが、結果、信濃が徳川に組み込まれ、上野が北条に組み込まれた。これらを見ると甲斐征伐とは(甲斐征伐で信長から駿河一国を拝領していた)徳川家康に駿河、甲斐、信濃を譲渡するための戦いであったと読めてしまう。徳川家康が本能寺の変の直後に、あまりに手際よく甲斐、信濃を領地としたので、本能寺の変を予め知っていて、旧武田家家臣たちを調略しつつ、臨戦状態で待機していたと読むのが妥当だと思う。家康の伊賀越えは演劇すぎる。私はここ岩村城にて明智光秀が本能寺の変を起こすことを信長に提案し、本能寺の変の後、どのようになるか説明したと思った。信長は自らが夢見ていた安土城宗教構想、安土から世界制覇を行うことに無理があると感じていたので、その案を受け入れたと推測した。信長が甲斐征伐の最大功労者の信忠に領地を全く分けなかったこと。甲州征伐後、家康が信長に手厚い旅行接待をしたこと。信長の弟、息子たち子孫のほとんどが徳川氏の旗本になっていること。変の後、豊臣秀吉は信長の路線に乗り日本統一を行い、その業績すべてを徳川家康に引き継ぎ、徳川幕府が開始したことから見ても、本能寺の変は日本歴史上最大の演劇で、順調な政権移行を進めるためのものだったと読んだ。私が推測した明智光秀が織田信長に提案した内容とは、本能寺の変を起こし、信長、信忠父子にはいったん地下に潜ってもらう。二人には信頼でき、外国語が習得できる若い部下を付け、莫大な金銀を持たせる。日本海を超え中国東北部の瀋陽付近、建州女真の地域に向かってもらう。目的地到着前後、ヌルハチを殺害し、織田信忠がヌルハチに背乗りする。ヌルハチ一族を全滅させ、愛新覚羅氏になりすまし、女真族をまとめ清朝を樹立し、信忠が初代皇帝に就任する。明朝を打倒する清朝は東南アジアの安定を図る朝廷とする。必要な資金は送り続け、軍事的応援を行うことの約束。ヌルハチの生年は1559年、織田信忠の生年は1555年或いは1557年と近い。信忠は元服後から歴史に名を出しているのに対し、ヌルハチが歴史に名を出すのは1583年、本能寺の変の翌年。それまで政治、軍事的成果を全く上げていないヌルハチが突如立ち上がり、それ以降、凄まじい活躍をした。ヌルハチが立ち上がる直前、李成梁率いる明軍がヌルハチ一族を全滅させている。後ろ盾となる一族もおらず、わずかな協力者だけで軍事活動を開始することなど唐突すぎるし、満24歳まで何ら実績を上げたことがない、軍事学習をしたと思えない人物がいきなり連戦連勝するのはおかしい。信忠ほどの教育を受け、戦果を上げていた人物で、後ろに信長がおれば女真族統一、清朝成立は可能だ。李成梁の明軍がヌルハチ一族を全滅させた軍事費用は信長・信忠が負担し、李成梁に多額の賄賂を渡し続けていたと考えれば辻褄が合う。信忠とヌルハチの肖像画はいずれも面長で似ている。豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役(1592年~1593年、1597年~1598年)はヌルハチに対する軍事協力だと読める。秀吉軍は明軍を朝鮮半島に貼りつけ、ヌルハチの女真族統一を明軍が阻止できないようにした。文禄の役では加藤清正の軍は朝鮮半島の東北部からヌルハチが敵対する野人女真の地域まで進軍している。ちなみに徳川家康軍は文禄・慶長の役に参戦していない。1615年、徳川が豊臣を滅亡させたことで朝鮮民族は今も徳川氏を賞賛し、感謝している。江戸時代、李氏朝鮮は表向き清朝に従属していたが、実のところ徳川幕府に従属していた。沖縄、琉球王国の統治に似ている。「ヌルハチが若いとき敵に追われ、逃げ場を失って溝の中に隠れた。そのとき、カラスの群れが不意に飛んできて彼の体を覆い隠したため、追っ手に見つからずに済んだ。」逸話があるが、カラスは八咫烏(結社)を連想させる。ヌルハチこと信忠を日本国が派遣した忍者集団が陰で守り続けていたと読めてしまう。1626年、ヌルハチが寧遠城を守る明軍を攻めた際、最初で最後の挫折を味わう。名誉挽回戦で背中に傷を受け、それが原因で亡くなった。織田信忠らしい最後だと思う。清朝を日本語で読むとシンチョウ、信長を漢読みするとシンチョウ、同じだ。信長が夢見た世界支配は(嫡男)信忠ことヌルハチ、(孫)ホンタイジが実現させ徳川幕府よりはるかに巨大な清朝を樹立したことで実現したようだ。日本人が中国や韓国に行っても外国に行ったような気がしない理由はここにあるのかも知れない。同様に中国人や朝鮮人が日本に来ても海外に来た気がしないと感じている。以上のようなことを考えながら岩村城の本丸から山々を見ていると、信長自身、天下統一事業をまもなく成し遂げられ、自らが成した目覚ましい成果を誇りに思っていたのに、突然、光秀からその成果すべてを家康に譲り渡し、(中国東北部の瀋陽付近)建州女真の地に向かってほしい。そこの部族をまとめ上げ、新しい朝廷(清朝)を作ってほしいと要請され、茫然となった様子を思い浮べてしまう。信長・信忠が地下に潜った後に、光秀も地下に潜ること、お互い氏名を変え平和な東南アジアを作る約束をしたことだろう。光秀は千利休に背乗りした可能性が高い。光秀は小柄、千利休は天海と同じく大柄だったので、光秀と親族の二人で千利休を演じたのかも知れない。千利休もヌルハチと同じく歴史に名が出る山崎の戦いまで何の実績もない。突如、山崎の戦いの秀吉の陣中に茶室(妙喜庵)を持ち込み、茶をふるまった。それ以降、秀吉と諸将をコントロールし続ける。軍事、政治活動、行政の実績が無く、それらを学んだことがない人物が突如、戦国の荒波を乗り越えて来た秀吉、諸将を自在に動かすことなどできるはずがない。光秀は十分すぎるほどの軍事、政治、行政の実績があり、皇族公家との折衝に長けていた。文化力も高かった。千利休が消えたのが1591年(天正19年3月末)、九州平定、小田原征伐が終了し、豊臣秀長が病死した2カ月後、千利休の政治的役割が終了した時期、文禄の役の約一年前とタイミングが良すぎる。千利休こと光秀は聚楽第で消えた後、大陸に渡り信忠ことヌルハチと密談を重ねたのではないかと想像してしまう。