本能寺

織田信長の躍進(15)

1582年6月20日(天正10年6月1日)信長は本能寺で茶会を開き、そのあと酒宴となり、妙覚寺より信忠が来訪し、信長・信忠親子は久しぶりに交流した。深夜に信忠が帰った後も、信長は囲碁の対局を見て、しばらく後に就寝したと伝わる。信長は酒を飲まない人だったので足取りが不確かということはない。私は信長・信忠の一行は若狭街道(鯖街道)を使い、本能寺・妙覚寺→下鴨神社→大原→朽木→熊川宿→小浜港の路線で約80㎞を逃走したと思う。休憩地点は朽木(現)興聖寺。当然ながら歴史記録がないので確かめようがないが、信長、森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸のグループと、信忠、長利(信長弟)、勝長(信忠弟)、坂井越中守のグループは糺の森で合流し計8名となり、(下鴨神社)糺の森、河合神社を拠点としていた口の堅い八咫烏の工作員の手引きで逃避したと想像した。小浜港まで歩けば休憩も含め24時間近くかかるが、馬を使えば休憩も含め11時間で移動できたと思う。本能寺の変は午前4時に開始されたと伝わるので、夜中11時に出発したとすれば約48㎞先の(朽木)興聖寺で休憩していた頃、本能寺の変が起きたことになる。信忠が信長の京都入りよりずいぶん早い21日に京都妙覚寺に入ったのも、信長の京都警備手配、逃避を助けてくれる工作員との打ち合わせ、逃避路の設定とその確認を行うためではなかったかと想像した。光秀は1.3万の大軍を整頓させてから本能寺を取り囲んだはずなので、実際の攻撃開始時間はもう少し遅い時間だったかも知れない。後世、本能寺の変の真実が追及できないようにするため午前4時開始と記録したのかも知れない。信長一行は午前10時までに小浜港に到着し、小浜港に停泊させていた大陸での行動に必要な物品を積んだ大型船に乗り、行き交う船が少ない日本海を横断し、朝鮮半島の東北部に上陸。陸路、白頭山(長白山)を見ながら吉林経由で瀋陽付近を目指したと思う。白頭山の山裾は春を迎えた季節なので通行できる。京都市内は南北で大きな高度差(京都地下鉄の高低差70m)があるが、東西も比較的大きな高度差がある。四条通を見ると四条大橋(標高38m)、天神川付近(28.5m)、松尾橋29.6m)。車で京都市内を走ると良く判るが、南北を貫く通りを走れば、垂直に立つ建物が北に傾いているのではないかと感じるほど高低差が大きく、東西を貫く道を走れば坂道を走っていることが実感できる。幕末、(新選組壬生屯所跡)八木邸から北に約1.4㎞先の二条城まで田畑で視界を遮る建屋が無かったと伝わっているので、本能寺の変が起きた頃、本能寺跡の西に人家はほとんどなかったはずで、本能寺跡の標高は36.3m、本能寺の周囲に堀が掘られていたので、天神川付近から7.8m高台にある本能寺は田畑の先の城郭に見えたはずだ。本能寺に物見やぐらが無くとも、高所から遮るものが何もない田畑の先、明智軍が桂川を渡り、本能寺まで行軍してくる様子は手に取るように見えていたことだろう。二条御所(旧二条城)の標高は約50m、妙覚寺跡と推測される上妙覚寺町の標高は41.6mなので、本能寺以上に明智軍の行軍の様子が観察できたはずだ。明智光秀の大軍が嵐山の西側を伝い京都に向かったのは夜明け前なので、大軍が使う松明で西の空は明るかったはずだ。嵐山の南側から大軍が顔を出し、桂川を超え本能寺に向かって来る様子を多くの京都の人々が高台から眺めていたはずで、都が騒然となっていたことが想像つく。これほど有利な地理条件があるのに本能寺が大軍に取り囲まれるまで何ら行動しなかったこと自体、とても不自然だ。とても信長・信忠が京都に居たとは思えない。光秀軍はこれから本能寺に攻撃に行きますという信号を出しながらの行軍なので、信長・信忠の逃避行が成功していなかった場合を想定していたのだろう。本能寺跡の真東2.8㎞の知恩院の三門、山亭、御廟から京都市内が良く見える。東山の高台にいた多くの見物者が見つめる中で本能寺の変が幕開けした。劇場型の戦いで、全国の人々に強烈に本能寺の変を知らしめるための事件だったことが実感できる。東山の展望台から本能寺跡を見下ろすと、嘘で固めた本能寺の変を感じられる。豊臣秀吉が防衛的な役割をほとんど果たさない高さ5m、全長22.5㎞もの御土居で京都の居住区域だけでなく北と西に広がる田畑までも囲み、土手の上に植樹したのは京都市内の見通しの良さを隠すため、本能寺の変の隠蔽工作ではなかったのかと疑う。(京都)大徳寺聡見院で見た木造織田信長座像は神経質な人という印象だった。常に神経を尖らせていた、酒を飲まない、食事量の少ない、就寝時間の短い人物が、本能寺で目覚めを襲われるはずがない。信忠についても同じで、実績を見れば超優等生であったことが読み取れ、何事も抜かりのない手配を行う人であったことが判る。先に書いたが5月21日、信長よりはるかに先に京都入りしたのは、信長の警備手配のため、逃走の準備のためではなかったのか。信忠が逃避せず二条御所(旧二条城)で明智軍と戦っていたら、若いころの父(信長)が稲生の戦いで、弟の信行軍に対し「柴田勝家、表に出てきて差しで勝負しろ」と怒鳴ったように、信忠は部下の光秀を名指して怒鳴ったはずだが、そのような記録はない。日光東照宮の見ざる、聞かざる、言わざる、3匹の猿は本能寺の変の大嘘、男山から観戦できる演劇戦のような山崎の戦いが八百長戦だったこと、千利休の正体、千利休が聚楽屋敷内で切腹したという嘘、朝鮮出兵の本当の目的を素知らぬふりで通した豊臣秀吉の姿を表現したものではないかと思う。信長・信忠の逃避行を手助けしたはずの朽木元綱(1549年~1632年)は徳川家康から冷遇され、常に脅されているような不安定な立場に置かれていた。本能寺の変の真実を隠し通すことを求められていたためだと思う。