方丈の西に白砂と亀島の元信の庭が、南に地面を見せる南庭が、北に井戸を見せる中庭がある。3つの庭は方丈から見下ろす庭なので借景山があったことが見て取れる。元信の庭の標高は51m、崖下に小川があり3m下がるが、すぐ元の標高に戻り雙ヶ岡手前の池跡で再び下り、雙ヶ岡に到達する。方丈の西513m先に標高102mの雙ヶ岡二の丘が、方丈の西北620m先に標高116mの雙ヶ岡一の丘がある。二の丘に登れば眼下に退蔵院、朱色の三門があるので、かつて妙心寺周囲が田畑だった頃は雙ヶ岡を借景にしていたことが判る。中庭も同じで、方丈と書院を結ぶ廊下から方丈と書院に挟まれた視界の先に雙ヶ岡二の丘を拝する位置関係にある。雙ヶ岡二の丘頂上付近と静岡県小國神社(遠江國二之宮鹿苑神社元宮社)を結ぶ神の通り道(A線)は退蔵院方丈、庫裏-妙心寺三門-妙心寺長興院-慈眼寺境内-華光寺境内-護王神社-大宮御所-迎稱寺-法然院境内-京都五山送り火の大文字-豊田市若林八幡宮を通過する。退蔵院建屋はこの神の通り道に平行に建っており、これら東西方向の寺社や聖地を遥拝している。A線両側には吉田神社南に隣接する宗忠神社、陽成天皇神楽岡東陵がある。余談になるが雙ヶ岡二の丘頂上付近からA線に沿って上記京都市内の各寺院を眺めた先には大宮御所があり、吉田神社があり、その上に大文字の送り火がある。南には慈雲院が隣接し、退蔵院方丈の南方向への視界を遮っているが、慈雲院の方丈、庫裏などが中国嵩山少林寺に向いているのに対し、視界を遮る西側の建屋のみが嵩山少林寺を遥拝せず他に向いている。おそらく幕府の許可なく建て増しできる時代になり、方角にこだわらず方丈西側に建屋を建て増した結果、退蔵院方丈の借景が失われたのだろう。今は樹木で目隠ししているが、妙心寺南側の門前は方丈南庭標高51mより5m程も低いので、樹木を剪定すれば視界を遮る建屋の隅に生駒山、大和葛城山が見えるのかも知れない。江戸時代には京都市内の西側に建屋がほとんどなく一面の田畑だった。約13㎞先の淀競馬場の標高が12m、標高差39mあるので、慈雲院西側の建屋が建てられるまで、緩やかに下る京都盆地の先16㎞に石清水八幡宮のある男山が、38㎞先に標高642mの生駒山が、63㎞先に標高959mの大和葛城山が、56㎞先に標高467mの三輪山が、88㎞先に標高1719mの大峰山が、96㎞先に標高1915mの八経ヶ岳が見えていたと思う。方丈は奈良築山古墳(磐園陵墓参考地)に向いており、この方角傍には法隆寺五重塔もあるので、聖地に向いて建てられた方丈は多くの聖山を直接拝む遥拝所になっていた。雙ヶ岡一の丘頂上から男山、そして生駒山が見えるように良く見えていたことだろう。龍安寺に隣接する禎子内親王圓乘寺東陵及び堀河天皇 後圓教寺陵の中間あたりと築山古墳を結ぶ神の通り道(B線)は龍安寺庫裏の東側建屋-妙心寺の多くの子院-退蔵院庫裏-法隆寺西側の藤ノ木古墳の中心-フジ山古墳を通過する。退蔵院建屋はこの神の通り道に平行に建っており、これら南北方向の寺社や古墳を遥拝している。B線両側には多くの寺社、古墳が点在する。A線とB線は庫裏で交差している。よって庭は神の降臨地と呼べると思う。元信の庭;三尊石の役割を持った庭中心石が1本だけ立っている。普通は石を3本立て三尊石組みとするので、借景があった頃、雙ヶ岡一の丘と二の丘とを中心石の両側に控えさせ三尊石組として見せ、枯水を雙ヶ岡から流れ出て来た聖水に見せていたのではないだろうか。急流で研磨されたぬるりとした石を枯山水の急流に配置することで、枯水流を勢いよく見せている。急流を抜けた枯水の進行方向には二つの河があり、奥の河は更に急流で研磨された石橋を潜らせ荒々しく流れて行くように見せ、手前、方丈側は緩やかな平たい石橋を潜らせ、緩やかに流れて行くように見せている。この亀島両サイドを流れる二つの河は亀頭の所で再び合流する。激流に揉まれた人生を送っても、緩やかな流れに乗った人生を送っても到達点は同じだと見せている。合流した枯水は湖で緩やかな時を過ごした後、再び急流で研磨された石橋を潜り激流へと入り、大海へ向かう旅に出るように見せている。庭石を見渡すと方丈際の飛び石は頭が平らなグレー色混じりの割石、亀島の石々は頭が平らな赤色の割石、対岸は概ね緑かかった自然な形をした暗い感じの石が多く、急流はグレー色の玉石が配されている。方丈手前と庭中央に割石を多用することで、吹っ切れたような清々しさがある。方丈から離れた石々は庭を広く見せるため暗い色の石を用いている。ここに居して修行した宮本武蔵は割石の切り口を凝視していたことだろうと想像してしまう。亀島の中心線は方丈と平行ではない。亀は石清水八幡宮を目指し泳いでいる。割石は雙ヶ岡の地勢に合わせ配置したのだろう。ずんぐりとした形の石が対岸のあちこちに置かれている。これらの石々は方丈の鑑賞位置から見て石清水八幡宮、雙ヶ岡などの聖地方向にあるので、神が権現する石として配したのだろう。左右に背の高い一対のマツがあり、モッコク、ツバキ、サツキが多い。クチナシもあり花で季節を感じさせ、苔面のササで風を感じさせ、冬にはマンリョウの赤い実を見せる。落葉樹が極めて少ない。庭外側にタケが群生しているが、庭の創建年から元々タケの群生はなく、素直に雙ヶ岡を見せていたはず、もしタケの群生を伐採すると雙ヶ岡がどのように見えるのか興味を持った。借景を失った現在は権現石を樹木の陰に鎮め、赤色の割石を並べ作った亀島を白砂に浮かび上がらせ、鑑賞者の心中に亀島を取り込ませる庭になっているが、借景の雙ヶ岡、男山、生駒山を直接拝んでいた頃は権現石が樹木の陰ではなく、借景山の前にあり、割石などの頭が平たい石の上に神々が座っているかのように想像させ、神を意識させる神々しい庭だった。雙ヶ岡に沈む夕日が赤色の割石を赤く輝かせていたことだろう。神の通り道が交差する神々が宿る庭にあって、白砂の沢があり、その上に風が通っているので、易経「61風澤中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」、大いなる愛にてどこまでも信じる虚心の信仰心を表現したのだと思った。雙ヶ岡から方丈に向かってくる白雲に感動できたことだろう。方丈南庭;本来は大パノラマが広がる借景庭で、青空の天と、苔面の地との間に借景を見せ、妙心寺大方丈前庭と同じく風を感じ、思索の世界を楽しむ庭だったはずだ。奈良の多くの聖山を直接遥拝できた頃は今以上に神々しかったはずだ。数年前に拝観した時には石灯籠がなかったのに、今回訪問したら一本の石灯籠が立ち、松が風になびく松に植え替えられ、綺麗にまとめられていた。常緑樹で囲まれた庭だが、春日型石灯籠を立て、傍に形の良い松を植えたことで、本来持っていた神が宿る雰囲気に戻されたと思った。春日型石灯籠の火袋と方丈の向きとが同じなので、方丈から遥拝先を意識できる。