蓮華寺(京都市左京区)

1662年(寛文2年)加賀藩の家老、今枝近義(1614年~1679)が、祖父、今枝重直(加賀前田家家臣1554年~1628年)の菩提を弔うため蓮華寺を再興した。再興の際に石川丈山(1583年~1672年)、狩野探幽(1602~1674年)、木下順庵(1621~1699年 儒学者)、隠元禅師(隠元隆琦1592年~1673)、木庵禅師(木庵性瑫1611年~1684、明国からの渡来人)が協力した。協力者の共通点は江戸幕府の直属者。再興時期は後水尾法皇(1596年~1680年)を中心とした寛永文化の成熟期、それに対抗し江戸幕府は儒学を軸とした武家文化を形成し発展させていた。修学院離宮、曼殊院に近い蓮華寺は公家文化に対抗する役割を与えられたことが容易に想像できる。前後して1619年、二条城改修、1624年~1644年(寛永年間)正伝寺築庭、1641年、詩仙堂建立、1661年、黄檗山萬福寺開創、1665年、毘沙門堂完成、1667年、圓光寺が詩仙堂近くに移り東照宮が設けられた。この庭に小堀遠州の躍動感あふれる大刈込はないが、樹木を自然風に剪定することで、枝葉を風に揺れさせ、風による動きを感じさせている。爽やかな渓流音が庭園内に響いている。書院東の庭は太陽光を書院背後から浴び、池水、明るい灰白系の石、カエデなどに反射させる明るい陽の池泉庭となっている。書院南の庭は庭西側にイチョウなど巨木を配し、太陽光の侵入を食い止め鬱蒼とし、更に庭内にスギなど幹だけを見せる見通しは良いが影の中にある陰の空間を作り、そこにサルスベリ、カエデなど植え、黒系の石を配した苔庭としている。薄暗い書院内から明るい池泉庭(陽)と薄暗い苔庭(陰)それぞれへ視線を移して観比べさせるようにしている。揺れ動くカエデの枝葉と部屋を通過する風から、左右の陰陽の庭は共に風の庭であることが実感させられる。建屋が向く方向をグーグル地図で調べると、書院は東に比叡山山中の千日回峰行の祖、相応和尚墓を遥拝していた。書院から明るい池庭を観ることは信仰の山、比叡山を遥拝し、相応和尚を偲ぶことに通じている。書院は南に(玉置山)玉石社を遥拝していた。途中に萬福寺境内の宝善院、(奈良)ウワナベ古墳の濠、甘樫丘を通過する。書院内から薄暗い苔庭を観ることは各聖地を遥拝し、修験道を偲ぶことに通じている。本堂と鐘楼は東に徳川家康の生誕地、岡崎城を、南に永観堂境内-南禅寺法堂-南禅院-(奈良)馬見丘陵-巣山古墳を遥拝していた。本尊の釈迦如来像、その傍らの阿弥陀如来像は巣山古墳などを見つめている。前田利家墓所と東本願寺白書院を結んだ線は庭と本堂を通過した。石川丈山が作った詩仙堂は花木を愛することで自己修養を行う借景庭だった。東本願寺枳殻邸(渉成園)は念仏を軸にした自己修養の東山借景庭だった。ここ蓮華寺も千日回峰行、修験道に思いを至らせる自己修養を軸とした庭だ。3者の庭に共通するのは風を感じること。蓮華寺の庭も単純構造で、舟石など庭石の形、石組も単純なので詩仙堂、渉成園と同じく借景庭園であったことが見て取れる。江戸時代、蓮華寺の東と南は田畑だったはずで、書院内から庭を見ると本堂を中心とし、その両側に豪快な借景が広がっていたはずだ。借景をもつ本堂は今以上に存在感を持って書院に迫って来たはずだ。借景を失った現在は天地創造の世界を小さく表現したような庭となっているが、本来は雄大な借景庭なので、借景を想像し、儒教易経の観点で石川丈山の庭を読み解いてみた。書院東の池泉庭(陽庭)は略真東にある上高野東山、比叡山を借景とし、相応和尚墓を遥拝し千日回峰行に思いを馳せ、天、山、風、沢を見る庭だった。大きく観ると「37風火家人」が当てはまる。火が燃えると風が起こる。煙立つところに人家あり、家の中心は火が燃えるところ。火により食事と暖がとれ和が生まれる。国家であれ家庭であれ、組織内のそれぞれの立場の者が、その立場にふさわしい言動を取れば組織は発展する。そのためには内部を整え、和を生む必要がある。それを説く庭だった。書院南の苔庭(陰庭)は玉石社を遥拝し修験道に思いを馳せつつ、低い山の上に広い空がある、天、山、風、地を見る庭だった。大きく観ると「53風山漸」が当てはまる。ものごとに終わりはなく、留まっているように見えるものも徐々に進んでいる。ゆっくりと順序を踏んで結婚に至るように、ゆっくりと成長する木々のように自らを失うことなく進むべき正しい方向へ徐々に進むべきことを説く庭だった。東方向の池泉庭(陽)から南方向の苔庭(陰)に視線を移すことは瞳孔を開くことになるので、何事も堅実第一にして将来の基礎を築くべき時。外に向かって進む前に家(組織)を平安に保つように心がけるべき時。急いで事を進めることは、かえって事を仕損ずる結果となる。本分を守り、心を移すことなく徐徐に進むべきことを感じさせる。次に瞳孔を開かせた薄暗い苔庭(陰)から瞳孔を閉じさせる池泉庭(陽)に視線を移すことは、前途に光明はあるが発達の機運はまだまだ遠い、先ずは家(組織)を正せと感じさせる。これらのメッセージを秘めた自省を促す武家庭園だ。比叡山から吹き下りて来た風が京都盆地へと流れる庭なので「57巽為風」風の如くに従う。徳川幕府が整えた正しい風に京都の人々が乗るべきことを示していたと思った。