妙満寺 雪の庭

二条通りの向きなどから見て、移転前の妙満寺(寺町二条;京都市上京区榎木町)は(静岡)久能山東照宮を遥拝していたと思う。寺町二条で松永貞徳(1571年~1654年)が作った「雪の庭」は久能山東照宮を遥拝するための庭だったと思う。1968年(昭和43年)現在地に移転した妙満寺(みょうまんじ)は寺全体で比叡山箕淵(みのふち)弁財天社を遥拝し比叡山を見つめている。現在、客殿から雪の庭を観ることは比叡山箕淵弁財天社を遥拝し、比叡山を神として拝むことに通じている。庭先、数十メートル先にはアカマツを見事に育てた小山があり、小山の右側に大比叡(848.3m)を見せる。築山と黒い玉石を敷いた枯池が借景の小山を大きく見せ、小山を引き寄せる形となっているので、目前の小山が迫ってくる。そのため5.44km先の大比叡がより崇高に見える。寺町二条、妙満寺跡の略東に高瀬川二条苑があるので高瀬川二条苑で見た風景を思い返すと、左に東山の北部分の比叡山が、右に東山の南部分が細長く、東山が左右に分かれて見えていた。寺町二条の「雪の庭」は東山全体を借景としていたはずなので、築山は二つに分かれて見える東山をつなぐ役割があったと思う。東山と築山で横長に見せた山を高く見せるため、築山手前にプールのような四角い枯池を作り、そこに黒い玉石を敷いたと推測した。過去、現在とも借景庭園なので庭そのものは単純構造だ。客殿周りは白砂、次に黒い玉石を敷いた枯池、そして築山。庭の左奥にある二つの井戸が地下水脈の存在を暗示している。飛び石は整った形の石を並べ築山の入口で行き止まりにしている。庭石はどちらかと言えば上面が平たい神の着座石のようなものが多く、色は黒っぽい。築山の頂上あたりは赤系の石とし、視線を上にするに従い石の色を明るくしている。西日を受けた庭と庭先の小山は明るいので、遠くの比叡山が青黒く崇高に見える。築山上に比叡山の形に似せた石があり、比叡山をより崇高に、より遠くに見せる工夫がされている。石灯籠は皆おとなしい。築山上にそびえるアカマツ、クロマツが借景の小山の巨大なアカマツをより巨大に見せている。庭左にサルスベリを大きく育て、手前に大きな石を置き、石の中からサルスベリが育っているように見せている。松永貞徳の叔父(母の弟)は儒教者、藤原惺窩(ふじわらせいか1561年~1619年)、息子の松永尺五(1592年~1657年)も儒学者なので、庭に儒教易経思想を吹きこんだと思う。二つの井戸で地下水脈を意識させるも、庭に水を見せず、上に進む天と下に進む水の離反がない、天地一体の庭としている。現在の庭は借景の小山と比叡山を楽しめるが、借景の小山が大きく見えすぎ、天空が狭く感じ易経に当てはめにくい。寺町二条にあった時は、築山と借景の東山とを横に連なるように見せていたはずなので、天と山に流れる風を下から見上げる易経「20風地観(ふうちかん)」を表現した庭だったと読んだ。要約すると地(民)が天(徳川幕府)を仰ぐ形となっている。民が東山上空の雲の流れや山の変化を見て季節、天候の変化を読み取るように、民が幕府を観察、省察して、幕府の命令の意図を観取し、心で幕府の意向を読み取るべきことを勧める久能山東照宮遥拝庭だったと読んだ。