龍安寺

本来の姿を樹木で隠す石庭、鏡容池回遊庭

極限まで不必要なものを排した石庭だ。単純な庭は借景庭園。石を置くことで借景を広々と大きく見せる定石どおりに作られている。現在、石庭の外周は大木で覆われ借景庭だったことが忘れられているが、作庭時には油築地塀の上にマツの葉が出ている程度で、京都盆地、妙心寺大本山、そして生駒山、奈良の山々を眺望する借景庭だった。1450年(宝徳2年)細川勝元が当寺を創建したのも眺望の良さからだったはずだ。借景を広く大きく見せる為に庭面積を75坪に絞り込み、風景に合わせて石を置いたと推測した。石庭南の鏡容池は借景の妨げとなる大型建屋を建てさせないメリットがあり、南側に展開していた水田に水を供給していた。標高を調べると方丈は99m、石庭は98m、鏡容池は88m、境外南「きぬかけの路」は85m、京都市内は標高差が大きく京都駅付近では30m、寺の周囲は水田だったので恵まれた眺望点に方丈が建てられたことが判る。この眺望を庭に取り込まなかったはずがない。比叡山をこれ以上美しく見せる場所はないと言う円通寺庭園の標高は108mなので、恵まれた標高にあることも読み取れる。方丈、庫裡、仏殿など主要建屋、大珠院、西源院の建屋は熊野那智大社の方向に建てられている。西源院境内の参道は熊野本宮大社大斎原に向かっていた。庫裡の観光客入口付近と熊野那智大社の御本殿中心とを線で結ぶと、鏡容池の中之島にある大弁財尊天の社、妙心寺の大庫裡、方丈の西側、法堂、仏殿を通過し、三門と南総門とをかすめた。妙心寺のいくつかの塔頭(天球院、金牛院など)も通過した。龍安寺方丈から妙心寺法堂まで1.33㎞ほどなので地球の丸みは考慮する必要がない。妙心寺は標高56m、法堂は8m高さなので、屋根頂上標高は64m、方丈の間の眺望目線高さを101mとすると約35m低い所に妙心寺法堂の屋根が方丈の間から見えるはずだ。すぐにでも油築地塀の高さ以下に樹木を刈り込めば、方丈から妙心寺法堂の屋根が見え直接遥拝ができるはずだ。白砂庭は熊野那智大社が発する光を反射し方丈に取り込む形になっているので、石庭の本来の姿は方丈の真正面に見える臨済宗妙心寺を直接遥拝し、同時に熊野那智大社を遥拝するためだと読んだ。余談だが妙心寺の建屋群、参道は熊野本宮大社大斎原を遥拝している。熊野那智大社の御本殿建屋群は高野山大門に向いているので祈りの束は高野山大門に当たるようになっている。江戸時代に各寺社がお互いに遥拝し合うように建屋、参道が調整されたことが読み取れる。衣笠山から京都市内を見わたす写真を見ると、石庭の油築地塀のように生駒山脈及び奈良南側の山脈群が横一筋に深い色で展開している。その手前に左から明るい緑色の東山、妙心寺伽藍、明るい緑色の石清水八幡宮の男山が見える。方丈中央から見てこれらの位置に同じような形にした島と石々を配置したことが見て取れる。石庭右側2箇所の島と石々は借景のいずれの山か判別つかなかったが、方角的には西南の島は妙心寺西側の双葉山(116.2m)もしくは天王山(270m)、西の島は嵐山(約378m)だと推測した。その背後の油築地塀は釈迦岳、ポンポン山など京都の西側の山脈に対応させたものだろう。方丈、庫裡、仏殿など主要建屋、大珠院、西源院の建屋は西に(江戸時代までは八幡本宮と称されていた)海神神社、東に下賀茂神社 糺の森(ただすのもり)を遥拝している。石庭はこの方向にピッタリと合わせて作られ、細長い石々の長手方向はこの線に沿って置かれている。虎の子渡しの庭の別称があるのは下賀茂神社の祭神、玉依姫命の子孫、八幡神たちが海神神社と下賀茂神社とを往来する様子を画いたため、石庭は海神神社と下賀茂神社の神々を結びつける目的も付加されたと読んだ。方丈の裏(東北)に小さな池がある。この方角には池のある金閣寺庭園、更に東北には琵琶湖があるのでいずれかの風景を切り取ったものだと推測した。方丈石庭と鏡容池の間には美しい花を咲かせる樹木を多く植えた鏡容池回遊庭があるが、実はここが龍安寺にとって一番重要な庭であったことも忘れ去られている。江戸幕府にとって一番大切とされた聖地は久能山東照宮と日光東照宮だが、その一つ久能山東照宮とブッダガヤの大菩提寺とを線で結ぶと、その線はこの庭を通過する。もともとは選定のいきとどいたマツ林だったはずだが、植え替えられた多くの種類の樹木が大きくなりすぎ、多くの大きな石々が樹木の影で忘れられたように眠っている。庭に釈迦牟尼仏石像が置かれているが、近代に置かれたように見えるので、正確にブッダガヤの大菩提寺を背にする方向に置いたのか心配になる。花木が多く植えられていること、鏡容池がスイレン、ハスの池となっていることが佛教の聖地ブッダガヤの大菩提寺を連想させ心地よい。ブッダガヤの大菩提寺が久能山東照宮に向けて放った光が鏡容池に反射し、庭に置かれた大きな石々を輝かせる主旨の庭だったと思う。石々で如来や菩薩を表現し、庭に如来や菩薩が遊ぶさまを画いた庭だったと思った。京都の庭は変貌を続けているので、作庭当初の意図が見えにくくなっているが、観察すれば美しさの源は河内源氏などの聖地遥拝にあり、神々の通過地点に庭があることが教えられる。